『桜に棲むもの』

丹後の国を、年取った武士が旅していた。

顔には年月が深い皺となって刻まれ、髪はすっかり白くなっているものの、腰はしゃんと伸び、眼光は鋭く、昔の武勇がしのばれる。

満開の桜が、粗末な家々の立ち並ぶ、どこか寂し気な里の風景に、華やかな彩りを添えていた。

春とはいえ、時折花びらを散らす風はまだ冷たく、野外で夜を過ごせる季節ではない。

武士は一軒の家に宿を求めた。

明日山越えをして山陰道に向かう予定だと話すと、家の主人はとんでもないといったように首を横に振った。

「悪いことは言わない。この季節に山越えをするのはおやめなされ」

武士がなぜだと問うと、主人はさも恐ろしそうに全身を震わせた。

主人によると、かつてこの山に住む鬼に攫われ、食われた都の姫が、桜の季節になると化けて出るという。いくら里の者が供養しても、僧や山伏が調伏しようとしても効き目はない。だが桜の季節が終わると、自然にいなくなるから、それまで待った方がよいと。

武士は黙って立ち上がると戸口に向かった。

「どこに行きなさる。まさか……物の怪退治に出かけられるおつもりか」

武士は振り返り、唇の端でかすかに笑った。

「わしは若い頃より、数々の物の怪やあやかしと戦って参った。いくら物の怪といえどもとは都の姫ならば、このわしの敵ではない。そなたはここで待っておれ」

止める主人の言葉も聞かず、武士は一人、濃い闇に覆われた山へと分け入っていった。

 

「この山に出るという物の怪よ、姿を現せ!」

武士は大音声で呼ばわった。

闇の中をざあっと風が駆け抜け、散らされた桜の花びらが頬を撫でてゆく。

前方の桜の木の下に、白くぼんやりとした影があった。闇に穴がぽっかりと空いたように、輪郭が滲み、かすかに光っている。

「言いたいことがあるならば聞こう。鬼に食われた無念か。ならば十分な供養を受けたろう。なぜ成仏せぬ」

「やっと来たか。わが嘆きを聞くものが」

影はゆっくりと立ち上がり、次第に人の形を取り始めた。乱れた長い髪に縁どられた白い顔の中、小さな唇がゆっくりと語り始めた。

それは人であった頃の、意外な過去だった。

「わたしは都にいた頃、入内(=帝の後宮に入ること)を控えておった。けれどわたしは入内などしとうはなかった。他の姫たちと帝をめぐって争うのも、貴族の男たちの権力争いの道具にされるのも、性分ではなかったのじゃ。だから童子様がわたしをさらいに来た時も、後宮に入るのも鬼に食われるのもさほど変わらぬと思ったのじゃ」

鬼は成人しても子どもの服装をするという。だから童子様というのは鬼のことだろう。

「あの方は人食い鬼などではない。都や里で生きる道を失った者たちを集め、人の世の外でひっそりと生きる場所を与えて下さった。わたしはそんな童子様を、お慕いしておった」

なんと、姫は鬼に食われたのではないという。あまつさえ、鬼を慕っていたとさえ。このようなことを訴えても、誰も信じまい。

だが、武士は黙ってその言葉に耳を傾けた。

「じゃが突然、鬼退治といって攻め込んできた武士たちに城は焼かれ、童子様は殺された」

「そなたは自らが慕っていた鬼の無念を伝えるために、ここに残っておったのだな。相分かった。そなたの話は里の者に伝えよう。それで満足か」

ところが、その武士の言葉に、かつて姫であった物の怪は、首を横に振ったのだった。

「あの夜も、こうやって桜が散っていたの」

物の怪は、ぐいと顔を上げた。その瞳は金色に輝き、唇には壮絶な笑みが浮かんでいた。

「そなたらが、攻め入ってきた夜も」

「ああ、そうだな」

武士はふっと目元に笑いを滲ませた。

「帝に従わぬものは野にも山にもいまだ尽きぬ。たとえ人に害をなすまいと、そういった者たちを鬼やあやかしと名付けて成敗する。それが若い頃のわしらの役目だった」

「待っておったぞ、この五十年! わたしの愛しいものを奪った者がやってくるのを! あの日、わたしは人の姿を失ったのじゃ」

気が付くと、物の怪の唇から鋭い歯がこぼれ、額には、牛のような角が一本生えていた。

「よい、連れてゆけ。わしはもう老いた」

武士は刀を捨て、座って目を閉じた。

「時の帝も既に亡い。若き日の行いの報いを、その身に受ける時が来たのかもしれぬ」

ざあっと再び風が吹いた。闇夜に舞う桜が、火の粉のように輝いた。

翌朝、老いた武士の、惨たらしく切り刻まれた体が、散り果てた桜の下で見つかった。だがその死に顔は、不思議に穏やかだった。

それきり山の物の怪は、姿を見せなかった。

 

 

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