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福岡市埋蔵文化財センター考古学講座「倭軍は百済・加耶連合軍とともに高句麗・新羅連合軍といかに戦ったか」行ってきた!①

はじめに

皆さん今日は、たまなぎこと珠下(たまもと)なぎです。

今日も来て下さって、ありがとうございます。

さて、久しぶりに歴史記事。

令和7年度福岡市埋蔵文化財センター考古学講座第2回「倭軍は百済・加耶連合軍とともに高句麗・新羅連合軍といかに戦ったか」、福岡市博物館まで行って参りました!

 

さっそくレポートです。

文中のスライド写真は、全て講演会からの引用です。

撮影可、出典を明記すればSNS投稿も可と現地でアナウンスがありました。

 

講師の先生は軍事オタク?

講師の岡安光彦先生の専門は軍事考古学。

「軍事考古学」なる分野が存在することを初めて知ったたまなぎ。

ちなみにスライドの背景は、オーストリアの博物館にある、神聖ローマ帝国時代の馬甲(馬用の鎧)をつけた馬の再現。

「日本以外の国は戦史に関する博物館の展示が一般的なので、一般人の軍事に関しての基礎知識レベルが高い」んだそうです。ほほう……

経歴の中にある「福島県立医科大学中退」が気になって仕方なかったたまなぎ。なぜ医者になるのが嫌になったのでしょう……

それはともかくとして、お話は非常に面白かったです。

 

講演会のアウトライン

講演会の内容は、軍事専門家らしく、水軍と陸軍、特に弓のお話が中心でした。

正直言って、白村江の戦いそのもののお話はわずかで、白村江に至るまでの倭と朝鮮半島での戦いの話が主。それでも聞いたことのない話が多く、非常に勉強になりました。

アウトラインは、こんなかんじ。

・倭人と倭弓のルーツ

・博多湾貿易と海の民・陸の民

・高句麗南侵と初期の戦い―水軍の活躍

・百済の軍事認識と漢城陥落

・白村江の戦いと海上戦略論

 

倭人と倭弓のルーツ

倭人のルーツ

古代の日本語、倭語を話す人々は、日本列島にやってくる前は、朝鮮半島に住み、無文土器文化を担っていた、というのが現代の考古学においての定説です。

しかし、その前にどこにいたのか、ということになると、

①西遼河(現在の内モンゴル自治区から遼寧省へ流れる川)周辺で雑穀農業を営むアルタイ語系の言葉を話す農民だった

②黄海や東シナ海沿岸に住んで水田農耕を営みながら交易や手工業生産も手掛ける、濊語(わいご、倭語と同系列の言語)を話す海洋民だった(濊倭同系説

と大きく分けて二つの説があり、未だ決着を見ていないそうです。

岡安先生ご自身は、日本の学者によって提唱された②説派だということでした。

 

倭弓のルーツ

倭人が武器として使っていた弓は独特でした。

人の背丈を超える大型の弓でしたが、何よりも大きな特徴だったのは、弓を握る持ち手の部分が真ん中より下にある、「上下非対称の弓」であることでした。

いわゆる『魏志倭人伝』にも、倭人の弓は「短下長上」と記されています。

倭弓のルーツは、太平洋やインド洋の沿岸・島しょ部の海洋性樹林帯に主に分布する南方系の大型木製弓とみられているそうです。

最古の例は、中国の東シナ海沿岸、杭州湾を望む浙江省の跨湖橋遺跡から出土した新石器時代(紀元前5000ー6000年頃)の漆塗りの丸木弓だそうでです。

これは環太平洋地域に広く分布し、日本の倭弓もこの一種と考えられるとのこと。

また、このタイプの大型弓は、オーストロネシア語族(5500年ほど前に台湾を起点として、マダガスカル、イースター島、ハワイ諸島、ニュージーランドまでに広がった海洋民族)と一致しており、彼らの担った文化と考えられるとのことです。

 

博多湾貿易と海の民・陸の民

さて、朝鮮半島を経由して海を渡った倭人たちがいかなる社会を形成していったかを端的に表したのがこのスライド。

「海洋ディアスポラ『倭人』交易(ネットワーク)社会の形成」。

たまなぎは「ディアスポラ」という言葉を知らなかったので帰って調べましたところ、Wikipediaにこう教えられました。

ディアスポラ(ギリシア語: διασπορά、英語: Diaspora, diaspora、ヘブライ語: גלות)または民族離散は、(植物の種などの)「撒き散らされたもの」という意味のギリシャ語に由来する言葉で、よくパレスチナ以外の地に移り住んだユダヤ人およびそのコミュニティに使われたが、古代から現代にかけてのギリシャ人のディアスポラ、アルメニア人のディアスポラにも使われて、最近では華僑、印僑、クルド人、パレスチナ人、日本人のディアスポラ(日系人)などと広く使われている。

 

なるほど、何らかの理由で故郷を離れ、同じ民族で同士でコミュニティを作って暮らす人々のようです。「華僑」のグループなどもこの概念に入るそう、納得。

 

朝鮮半島から日本列島に渡って来た倭人たちは、どのような人たちだったのか。スライドからの文字起こしです。

・鉄資源を求め対馬海峡を渡った日本列島の海民、列島に渡来した後期無文土器人とその後継者は、それぞれコロニーを形成し、海上交易に従事して、弥生時代後半には楽浪郡から禁忌に至る交易網を成立させていた(武末2009)

・古墳時代前期前半、畿内王権・山陰地方、加耶地域と深く交わりつつ北部九州の首長連合が主体的な役割を果たした博多湾貿易が最盛期を迎えた(久住2007)

・倭の海洋民は、機会あれば海賊に転ずる海洋軍事集団でもあった(松木2001、金2019)

最後の一項は、なかなかのインパクト。結構朝鮮半島南部を荒らしまわったりもしていた、なかなかヤバい人たちだったようです(笑)。

 

まとめ

・倭人はもともと朝鮮半島から日本列島に渡って来たが、それ以前にどこにいたかは説が分かれている。

・倭人の武器であった弓は短下長上の特徴を持ち、環太平洋地域に広く分布したオーストロネシア語族の弓にルーツを持つと考えられる

・倭人は日本列島に渡った後コロニーを形成し、海上貿易網を完成させたが、機会があれば海賊にも転じる人々だった。

 

「白村江」……全然出てきませんでしたね(笑)。たまなぎもそう思いました。

長くなりましたので、続きは次回に。

最後までお読みいただき、ありがとうございました!

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