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九州歴史資料館「筑紫君一族史」行ってきた③筑紫君磐井の時代

はじめに

皆さん今日は、珠下なぎです。

今日も来て下さって、ありがとうございます!

 

さて、年末年始のご挨拶などで間が空いてしまいましたが、今回は、九州歴史資料館で昨年末に開催された「筑紫君一族史」のレポート続きです。

今回はいよいよ筑紫の君磐井の時代です!

 

岩戸山古墳はなぜ被葬者が分かったのか

筑紫君磐井の墳墓である岩戸山古墳は、全国でも数少ない、被葬者の同定されている古墳です。

実は磐井の墓だと同定されたのはそれほど昔のことではありません。

 

江戸時代の国学者たちは、磐井の墓は石人山古墳だと考えていました。

石人山古墳は、今では磐井の代より百年ほど前、磐井の祖父の代の筑紫君の墓だと考えられています。

石人と石屋形が特徴的な古墳です。

 

この説の元になったのは1751年に緒方惟臣・杉山正仲によって記された『筑後国石人図考』で、これを見て、本居宣長も『古事記伝』などの著書で、石人山古墳を磐井の墓だと紹介しています。

 

しかし、これに異論を唱えたのが久留米藩士の矢野一貞。(さすが地元民!)

『三事図考』に「磐井墳墓并(ならびに)埴輪考」を表し、『筑後将士軍談』に岩戸山古墳の実測値や絵図、石人石馬の図を掲載し、岩戸山古墳が磐井の墓であることを初めて主張したのです。

 

近代になって、森貞次郎氏が石人山古墳と岩戸山古墳の墳丘実測計測数値と『筑後国風土記逸文』の数値を検討して、磐井の墓が岩戸山古墳であることが考古学的に論証されたのです。

 

岩戸山古墳の威容

巨大な石製表飾

岩戸山古墳は、墳丘170メートル以上という、大変巨大な古墳です。

古墳そのものとは別に、別区と呼ばれる、43メートル四方の場所があります。

岩戸山古墳といえば、石人石馬が有名ですが、その他にも多数の石製品・石製装飾が見つかっています。一基の古墳から複数の石製表飾が見つかるのはまれで、磐井の力の強さと当時の八女地域の繁栄をうかがわせます。

 

岩戸山歴史文化交流館に所蔵されている石馬。明らかに破壊の後があります。

『筑後国風土記逸文』によれば、磐井が追手を逃れたので、朝廷軍の兵士が怒って破壊した、ということになっています。

しかしよく見ると、胸の部分に見える馬鐸と言われる三角形の飾り、お尻の部分に並んで見られる杏葉と呼ばれるハート型の飾りなど、きらびやかに飾り立てられた様子が分かります。

当時の豊かさと、馬の装飾へのこだわりが感じられますね。

 

こちらは武人型石人。普段は岩戸山歴史文化交流館で見ることが出来ます。

 

太刀型石製表飾。これは、「捩り環頭太刀」と言われる、ヤマト王権中枢で成立した太刀の特徴を備えており、当時のヤマト王権=継体天皇政権と筑紫の君磐井が、親密な関係であったことを意味しています。

 

現在、岩戸山古墳の「別区」には、『筑後国風土記逸文』を参考に、ありし日の様子が再現されています。

これは、猪を盗んだ疑いをかけられた人が、裁判にかけられている様子を表していると、『筑後国風土記逸文』には記述されています。

 

 

初公開! 馬甲埴輪

今回の展示会の目玉の一つは、初公開となる「馬甲着装馬形埴輪」でした。

かけらだけを見ると何のこっちゃですが、復元図を見ると、馬が戦闘用に武装していた様子がうかがえます。

筑紫君の「重装騎兵」を配置を物語る資料、と図録には記されていました。

 

 

 

継体天皇の今城塚古墳

筑紫君磐井の時代、ヤマト王権の中枢にいたのは継体天皇でした。

この継体天皇は皇統が途絶えた後、かなり高齢になってから入り婿の形で皇位を継いだ、異色の天皇です。

継体天皇の墳墓は今城塚古墳。

こちらも全長約190メートルの巨大な古墳です。

 

今城塚古墳と岩戸山古墳は相似形であることが分かっており、さらに岩戸山古墳と同様の別区もあります。

今城塚古墳と相似形の古墳については、こちらの記事でもご紹介していますので詳しくはこちらをどうぞ。

 

石製表飾で飾られた岩戸山古墳に対し、今城塚古墳は日本最大の家型古墳を始め、多種多様な埴輪で飾られ、祭祀の様子が再現されていました。

こちらが家形埴輪。高さは一メートル以上はあるでしょうか。

 

馬型埴輪。こちらもデカイ!

 

三つ並んだ巫女型埴輪のうち、中央が今城塚古墳から出土したものです。

 

時を告げる鶏型埴輪も。実は、鶏型埴輪は人形や馬型よりも古く、3世紀頃から作られていました。

 

岩戸山古墳からも、鶏型の石製装飾が見つかっています。

 

継体天皇の石棺片。これは阿蘇ピンク石と言われる、九州・宇土半島のみで産出するものです。

筑紫の君の勢力範囲から運ばれた石が大王の石棺に使われているということは、筑紫の君と継体天皇のつながりの深さを表しています。

それがいかにして対立へ向かったのか。いろいろ考えてしまいますね。

 

 

磐井の対外交流・金の耳環

磐井はヤマト王権とは別に、独自の外交ルートを持っており、それが磐井の乱の一因とも考えられています。

こちらは、岩戸山古墳と同時代の、立山山古墳8号墳から出土した金の耳飾り。

鉄と金で栄えた大伽耶のものと考えられています。

この時代のトップは磐井ですから、立山山古墳の被葬者は少なくとも磐井よりも下の地位にあった人物です。それがこれほどのものを身に着けていたとは、筑紫はどれほど豊かだったのでしょうか。

 

立山山古墳は大規模な盗掘を受けていて、片方は失われているそうです。もったいない話ですね。

 

まとめ

・江戸時代、磐井の墳墓は石人山古墳と考えられていたが、近世になって岩戸山古墳であると論証された。

・岩戸山古墳からは多数の石製装飾が見つかっている。

・継体天皇の墓と磐井の墓は相似形であり、他にも二者の強いつながりを示す考古学的資料が多数ある。

・磐井は独自の外交ルートを持っており、磐井の時代の立山山古墳からは、大伽耶製の金の耳飾りが見つかっている。

 

最後までお読みいただき、ありがとうございました!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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