『遠の朝廷にオニが舞う』 作品解説&エピソード

『遠の朝廷にオニが舞う』の世界㊺白村江の戦いと古代日本の外交その1(by 珠下なぎ)

皆さん今日は、珠下なぎです。

 

本日からは、『遠の朝廷にオニが舞う』の時代に多大な影響を与えた、歴史上の大事件と、当時の日本周囲の国際情勢についてお話ししていきたいと思います。

 

それは、皆さんご存じの白村江の戦い。

 

663年10月、日本・百済遺民の連合軍と、唐・新羅の連合軍が朝鮮半島の白村江で戦火を交え、日本と百済遺民の連合軍は破られます。

そして日本は任那以来持っていた、朝鮮半島における覇権を失うことになった、ということくらいは皆さんご存じのことと思います。

 

では、どうしてこの白村江の戦いが起きたのか?

 

日本は大陸とどのような関係を結んできたのか?

 

についてお話ししたいと思います。

 

7世紀前半、朝鮮半島は北から高句麗・新羅・百済の三国が覇権を争っていました。

特に高句麗と百済に挟まれた新羅は、たびたび両国から攻められ、苦しい立場に置かれていました。

 

一方、中国では隋が滅び、唐が中国全土を統一します。

 

当時の新羅は善徳女王のもと、唐に助けを求めますが、唐は最初は取り合いません。

統一されたばかりの唐は、まだ国内が落ち着いておらず、そこまで手が回らなかったのです。

けれど唐と国境を接する高句麗との間に戦が起こると、高句麗を抑えるために新羅を冊封国として支援する姿勢を見せます。

 

敵の敵は味方。という奴ですね(笑)。

 

朝鮮半島の情勢は、(唐+新羅)VS(高句麗+百済)となります。

 

一方を白、一方を黒とすると、地図の上ではオセロのように互いを挟み合っているのが分かります。

引用:遠き日の勇者の物語~白村江の戦と大伴部博麻~ https://youtu.be/OicuXxGf1nM

 

この頃、善徳女王の元で力をつけていた新羅の王族に、金春秋という人がいます。

この人は654年に武烈王として即位すると、積極的に唐との関係を強化します。

 

一方、650年代から百済は、王族が奢侈に走り、民を顧みなくなるなど腐敗が侵攻していました。

虎視眈々と百済侵攻の機会を狙っていた新羅・唐は659年、ついに百済に侵攻します。

国力が落ちていた百済はあえなく敗れ、翌年、百済はついに滅亡するのです。

 

長年百済の侵攻に苦しめられ、自らも娘を百済の侵攻によって殺された武烈王は、この時百済の王族にかなりエグい復讐をしたという話も、複数の小説で読みました。出典はちょっとわからなかったのですが、多分事実なんでしょう……ちょっとここには書けないので、気になる方はお調べください(笑)。

 

百済の王族は滅び、難民となって日本に逃げた人たちもおりました。

また、この時戦から逃げ延びた百済の遺臣の中に、鬼室福信という人がいました。

名前からして強そうな人ですが、この人は生き残った百済王室の臣下を集め、倭国に救援を要請します。

 

この時倭国に救援を求めたのは、日本が百済の友好国だったからというだけではありません。

倭国には、百済復興運動に格好の、旗印となりうる人物がいたのです。

 

次回はこの人物を中心に、当時の日本の外交戦略についてお話ししたいと思います。

 

最後まで読んで下さって、ありがとうございました!

 

 

 

 

 

 

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