歴史 宗教・神話

「神功皇后は怨霊だった」説をもう一度検証

皆さん今日は、珠下(たまもと)なぎです。

今日も来て下さって、ありがとうございます!

 

さて、先日記事で書いた、「神功皇后は怨霊だった」説。

大変反響を頂きました。「神功皇后がなぜ怨霊になったか」には様々な方から様々なご意見を頂きました。それらを踏まえ、もう一度神功皇后怨霊説を検証することと致しましょう。

 

1.「神功皇后が怨霊である」という認識についての検証

まず、「神功皇后が怨霊である」ということの根拠になるのは、

①『続日本紀』の843年の記録「神功皇后の祟りがあるたびに」という文言

②香椎宮の構造が「怨霊神」仕様になっていること

の二つです。

 

以前の記事でも述べたように、香椎宮はもともと、神功皇后・仲哀天皇の二人の霊を祀る「霊廟」であり、今のような形になったのは10世紀半ばごろと推定されています。

神功皇后の祟りがあったとされるのは、少なくとも①の843年以前ですから、「神功皇后は祟るもの」という認識は、香椎宮が今の形になる以前にあったと考えられます。

香椎宮は、その認識を踏まえて、今のような構造になったと考えられます。

 

ですから、少なくとも9~10世紀の人びとが、「神功皇后が怨霊」という認識を持っていたのは間違いないことと思われます。

 

2.何を以て「祟り」とするか

ではなぜ、当時の人びとは、「神功皇后が祟る」と考えたのでしょうか。

 

他の、有名な怨霊神とされた人々を見てみましょう。

日本三大怨霊といえば、「菅原道真」「崇徳院」「平将門」を指します。

いずれも、政争に敗れて悲劇の死を遂げた人々です。

また、怨霊を鎮める祭りとして最初のものは863年の御霊会。

こちらも早良親王をはじめとして、悲劇の死を遂げた人々の魂が慰められています。

 

「祟り」というのは、現代の常識からすれば非科学的です。

しかし、人が何を以て「祟り」と考えるかは説明できます。

それには、二つの条件が必要です。

①「祟り」と思えるような不幸な出来事の発生(天災や疫病)

②①以前に、悲劇のうちに亡くなった人の存在

 

これらがあって初めて、人はそれを祟りと認識するのです。

何か悪いことがあって、それ以前に悲劇のうちに亡くなった人がいると、人はそれを「あの人が怨霊になって祟ったのだ」と認識します。

これが怨霊の誕生です。

実際にその人、恨みを残して死んだかどうかなどは、亡くなった本人にしか分かりません。ですから、「祟る」とされた本人が恨みを残したかどうかは関係なく、周りが「あの人は恨みを残して死んだのだろう」と認識していた、ことの方が大事なのです。

 

古代の人びとは神功皇后を「悲劇の死を遂げた」「怨霊になって祟っても仕方がない」と認識していた、ということです。

現代の視点から我々が彼女の生涯をふり返ると、彼女の人生は若くして夫を亡くしたこと以外は順風満帆。とても「祟る」ようには見えませんが、古代の人びとはそうは見ていなかった、ということです。

 

3.事実の検証

ではもう一度、「神功皇后が怨霊だった」という視点に立って、彼女の人生から関連する事実を抜き出していきましょう。これについては、①「正史に記されれていること」②「神社の記録や正史から『かなり確からしい』こと」に分けられますので、それらを数えていくことと致しましょう。

 

①正史に記されていること

・仲哀天皇は新羅遠征に消極的で、神託を授けた海神(住吉大神ら)と対立した

・仲哀天皇の死後、神功皇后は新羅を討った

・神功皇后は応神天皇を天皇に立てるため、仲哀天皇の皇子らと戦って勝った

 

②神社の記録や正史から「かなり確からしい」こと

・応神天皇は仲哀天皇の子ではなく、住吉大神の子(『住吉大社神代記』の記録、妊娠週数の矛盾)

・神功皇后は仲哀天皇の死後、高良大明神と再婚した(筑後国一之宮・高良大社の『高良記』)

・神功皇后は住吉三神ら海神=九州一帯に広く存在した海洋系民族と親密な関係であった

(干珠満珠の伝説、『書紀』のわだつみからの神託を受ける場面が複数存在する)

 

 

3.可能性として考えられること

これから先は、2の事実を踏まえた、単なる推論です。

神功皇后が恨みを残したとして、彼女が恨んだのは誰でしょう。

彼女は従わなかった熊襲や羽白熊鷲・田油津媛、新羅までも次々と従わせ、息子の応神天皇を帝位に就けています。彼らは全て神功皇后の意のままになったはずです。

 

唯一彼女の意のままにならなかった存在があったとしたら……それは、仲哀天皇の死後、彼女を支え続けた海神=海洋系民族以外に考えられません。

 

彼らは、仲哀天皇と対立していました。

彼らの意見を聞かなかった仲哀天皇が急死したのも、彼らとは無関係ではなかったかもしれません。

直接害した、というわけではなくとも、意見の対立の末にもみ合いになり、意図せず死に至らしめてしまった、とか、口論の末に興奮した仲哀天皇が、突発的に血圧が上昇して脳出血を起こした、などの可能性は考えられます(当時天皇は50代。当時としてはかなり高齢でした)。

 

夫を失った彼女は、海神らの意に沿う政策を行わざるを得なかったでしょうし、夫の死に海神らが絡んでいたとしたら、恨みを持った可能性も大きいでしょう。

 

また、Twitterのフォロワーさんの中には、「神功皇后と海神らの中に、意見の対立や背信行為があったのでは」というご意見も見られました。その方が想像しておられたのは、「神功皇后は仲哀天皇の前の妻との子たちの助命を願っていたのではないか、それを海神らに反故にされたのでは」ということでした。

これはもちろん想像にすぎませんが、大和への凱旋の過程で、海神らが神功皇后の意に沿わず、深く恨みを残すようなことを行った、あるいは約束を違えた、などの可能性はあり得ることだと思います。

 

そして、神功皇后の恨みの原因を、少なくとも9世紀ごろまでの人びとは、口伝えなどにしろ、知っていたのでしょう。

 

今となっては正史や周辺の記録から類推するしかない、神功皇后の「恨み」。

皆さんはどう考えられるでしょうか?

 

最後までお読みいただき、ありがとうございました!

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