「戦争はいけない」と伝えることの大切さ――『博士ちゃん』アウシュヴィッツ特集を観て

はじめに

皆さん今日は、たまなぎこと珠下(たまもと)なぎです。

今日も来て下さって、ありがとうございます。

 

前回に引き続き、戦争関連の記事です。

10月17日放送のテレビ朝日系『サンドウィッチマン&芦田愛菜の博士ちゃん』では、ポーランドにあるアウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所が取り上げられました。放送当時は見逃しましたが、フォロワーの皆さんからも評判が良かったので、TVerの配信で見てみました。

 

ナチス・ドイツによるホロコーストの現場を訪れ、そこで何が行われたのかを学ぶ内容でしたが、観終わって、あらためて「戦争はいけない」というメッセージを伝え続けることの大切さを感じました。

同時に、現在の世界や日本社会の状況を考えると、もう少し踏み込んで伝えてほしかったと思う点もありました。

今回は、番組を観て感じたことをまとめてみたいと思います。

 

番組の概要――アウシュヴィッツの歴史を現地から伝える

今回の『博士ちゃん』では、第二次世界大戦中にナチス・ドイツがユダヤ人などを迫害し、大量虐殺を行ったアウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所が紹介されました。

収容所に残された施設や展示物などを通して、そこで何が行われていたのかが伝えられました。出演者たちが現地を訪れ、実際にその場所を目にしながら説明を受けることで、歴史上の出来事を単なる知識としてではなく、現実に起きたこととして受け止められる構成になっていました。

アウシュヴィッツは、ホロコーストの象徴ともいえる場所です。多くの人々が人間としての尊厳を奪われ、命を奪われました。

こうした歴史を、映像や現地の様子を通して伝えることには大きな意味があると思います。

 

よかった点――「戦争はいけない」というメッセージを伝えること

出演者の反応を通して、悲惨さが実感できる

今回の番組でよかったのは、出演者たちがアウシュヴィッツの現場を実際に見て、感じたことを率直に伝えていた点です。

歴史の授業などで、ホロコーストについて学ぶ機会はあります。しかし、数字や文章だけでは、そこで何が起きていたのかを具体的に想像するのは難しいものです。

実際に使われていた施設や、当時の人々の生活を想起させる展示を目の前にすると、そこで起きたことが急に現実味を帯びてきます。

出演者たちの驚きや戸惑い、言葉を失う様子を見ることで、視聴者もまた、歴史の重さを身近なものとして受け止められたのではないでしょうか。

過去の悲劇を伝えるうえでは、事実を説明するだけでなく、それを知った人が何を感じ、どう受け止めたのかを伝えることも大切だと思います。

 

人間の尊厳が奪われていく恐ろしさ

特に印象に残ったのは、人間の尊厳が徹底的に踏みにじられていったことが伝わってきた点です。

ホロコーストは、単に多くの人々が殺害されたというだけの出来事ではありません。人々を民族や属性によって分類し、差別し、権利を奪い、最終的には命まで奪っていく。その過程で、人間が人間として扱われなくなっていったことが、恐ろしいのです。

「移住して新生活をする」と騙されてヨーロッパ各地から集められたユダヤ人たちは、非人間的な環境で過酷な労働に従事させられます。

そこには、徹底的な効率化がありました。少しでも多くの人を収容するために、狭い空間を上下に三段分け、3メートル四方ほどの狭い空間に5-6人がひしめきあって寝るベッド。工業用品の材料にするために刈られた髪の毛。

また、犠牲になった人々が残した大量の遺品も、失われた命の膨大さを生々しく感じさせます。

 

中でも、ガス室と死体の焼却場に関する説明は衝撃的でした。死体を運ぶ手間をなるべく軽くするために、ガス室のすぐ横に焼却場が作られていたのです。

赤楚衛二さんが、その場所について「エグい」と反応していたのが印象に残っています。

もちろん、悲惨な歴史を表す言葉としては、もっと重々しい表現もあるでしょう。しかし、あの場面で思わず出た「エグい」という言葉には、目の前にある事実を受け止めきれない感覚が表れていたように思います。

大量殺戮が、まるで効率を重視する作業のように進められていたこと。そのための施設や仕組みが整えられていたこと。そこに、言葉では表しきれない恐ろしさがあります。

人間が人間を殺すという行為が、組織や制度のなかで合理化され、事務的に処理されていく。その異常さを感じ取ることは、ホロコーストを理解するうえで重要なのではないでしょうか。

 

今だからこそ、「戦争はいけない」と繰り返し伝える意味がある

今回の番組でも、「戦争はいけない」というメッセージが伝えられていました。

私は、こうした言葉を繰り返し伝えることは、決して無意味ではないと思います。

現在の日本では、安全保障や防衛力の重要性が強調され、憲法改正を求める声もあります。国際情勢が厳しさを増すなかで、防衛について議論すること自体は必要でしょう。

しかし、そのような議論が盛んになる一方で、戦争に反対することや、平和を求めることが、現実を見ていない意見であるかのように扱われる場面も多々あるように感じます。

「戦争はいけない」と口にすることさえ、どこか敬遠されてしまう。そんな空気が広がっているとしたら、それは危ういことです。

戦争は、国と国が戦うという抽象的な出来事ではありません。そこには、一人ひとりの命があり、家族があり、日常の暮らしがあります。そして、戦争が始まれば、その命や暮らしが簡単に失われてしまうことがあります。

だからこそ、戦争によって何が起きるのかを具体的に知り、その悲惨さを次の世代に伝えていく必要があります。

「戦争はいけない」という言葉は、単純な理想論ではありません。過去に起きたことを学び、同じような悲劇を繰り返さないための出発点です。

今回のような番組が、そのことをあらためて考えるきっかけになるのは、とても意義深いことだと思います。

 

気になった点――現在のパレスチナの状況にも触れてほしかった

ホロコーストの歴史と、現在のイスラエルによるパレスチナへの攻撃

一方で、今回の番組を観ていて、少し物足りなく感じた点もありました。

それは、ホロコーストの歴史を紹介するのであれば、現在のイスラエルとパレスチナをめぐる状況にも、ほんの少しでよいので触れてほしかったということです。

イスラエルは、ヨーロッパなどで長く迫害され、ホロコーストという未曽有の悲劇を経験したユダヤ人の歴史と深く結びついて成立した国家です。その歴史を理解することは重要です。

しかし、その歴史があるからといって、現在のイスラエル政府や軍による行為が、何であっても正当化されるわけではありません。

パレスチナ、とりわけガザの人々が置かれてきた状況や、軍事攻撃によって多くの民間人が命を落とし、生活の基盤を破壊されてきたことについても、私たちは目を向ける必要があります。

もちろん、ホロコーストと現在のパレスチナの状況を、歴史的背景の異なる出来事として丁寧に考えることは必要です。両者を単純に同一視すべきではありません。

しかし、過去に自分たちが受けた迫害の歴史が、現在の他者への暴力を正当化する理由になってはならないはずです。

ホロコーストの悲劇を学ぶのであれば、そこから導かれるべき教訓は、ユダヤ人が受けた迫害だけを特別なものとして記憶することではないと思います。民族や宗教などを理由に人間の命や尊厳が踏みにじられることそのものを、許してはならないということではないでしょうか。

 

イスラエルへの批判と、反ユダヤ主義は別の問題です

この問題について考えるとき、難しさを感じることもあります。

イスラエル政府の政策や軍事行動を批判すると、反ユダヤ主義だとか、ホロコーストを否定する考え方だとか、受け取られてしまうことがあるからです。

もちろん、ユダヤ人への差別や迫害を正当化することは許されません。ホロコーストを否定したり、矮小化したりすることも、決してあってはならないことです。

しかし、ユダヤ人への差別を否定することと、イスラエル政府の政策を批判することは、両立し得ると思います。

 

イスラエル政府の行為を批判することは、ユダヤ人全体を非難することとは違います。同様に、イスラエルによるパレスチナへの攻撃を批判することは、ホロコーストを肯定することでもありません。

むしろ、過去にユダヤ人が受けた迫害の悲惨さを真剣に受け止めるからこそ、現在、ほかの人々の命や尊厳が脅かされていることにも敏感でありたいと思います。

ホロコーストの歴史を語る番組であれば、過去の悲劇を記憶することと、現在の人権侵害に目を向けることは、決して矛盾しないのだという点にも触れてほしかったです。

過去に起きたことを悼むだけでなく、その歴史から何を学び、現在の世界をどう見るのか。そこまで考えることができれば、番組のメッセージはさらに深まったのではないでしょうか。

 

伊集院光さんの発言は、とても重要だったと思います

番組の終盤で、伊集院光さんが差別について語っていたことも印象に残りました。

特定の人々を「あいつらのせいにしてしまおう」という考え方が、差別を生み、戦争にもつながっていく。そして、戦争が起きることで、さらに差別が強まっていく。そうした趣旨の指摘だったと受け止めました。

私は、この発言は非常に重要だったと思います。

戦争は、突然始まるものではありません。もちろん、政治的・軍事的な要因や、国家間の利害対立など、さまざまな背景があります。しかし、その土台に、特定の集団を敵とみなし、その集団に社会の問題や不満の原因を押しつける考え方が存在することもあります。

「あいつらが悪い」「あいつらさえいなければ、世の中はよくなる」。そうした考え方が広がると、相手を一人の人間として見ることが難しくなります。

やがて、相手を排除したり、権利を奪ったり、傷つけたりすることへの抵抗感も薄れていきます。

ナチス・ドイツによるユダヤ人迫害も、こうした差別や排除の問題と切り離して考えることはできません。

そして、これは過去のドイツだけの問題ではありません。現代の社会でも、経済的な不安や社会への不満が高まったとき、特定の民族や国籍の人々、あるいは社会的に弱い立場に置かれた人々が、その不満のはけ口にされることがあります。

もちろん、現代の日本とナチス・ドイツを単純に同一視することはできません。しかし、特定の集団に責任を押しつけ、排除を正当化し、差別を当然のものとして受け入れていく考え方については、時代や国を超えて警戒する必要があります。

伊集院さんの発言は、アウシュヴィッツの歴史を、単に過去の悲劇として振り返るだけでなく、今の私たちの社会にもつながる問題として考えるための、大切な視点を示していたと思います。

 

芦田愛菜さんにも、この点をもう少し掘り下げてほしかったです

少し気になったのは、伊集院さんの差別に関する発言を受けて、芦田愛菜さんがその点をもう少し掘り下げるようなやり取りがあってもよかったのではないか、ということです。

もちろん、番組の進行や時間の制約もあるでしょうし、出演者一人ひとりに求められる役割も異なります。芦田さんがその場で何を考えていたのかも、外からはわかりません。

ただ、今回の番組で伝えられたアウシュヴィッツの悲劇と、伊集院さんが指摘した差別の問題は、深くつながっています。

戦争によって人々が殺されるという結果だけでなく、なぜ特定の人々が迫害の対象になったのか。なぜ周囲の人々が、それを許容したり、見過ごしたりするようになったのか。

そうした問いをさらに掘り下げることができれば、歴史を学ぶ意味がより明確になったのではないかと思います。

そして、その問いは、現在の日本社会にも向けられるべきものです。

 

「反差別」が敬遠される社会で、私たちは何を学ぶのか

今回の番組を観ながら、私は、日本では「反差別」という言葉や姿勢そのものが、どこか敬遠されているように感じることがある、という思いもあらためて抱きました。

差別はいけない。人を属性によって排除してはいけない。そうした考え方は、本来、特別な思想や立場に属するものではなく、人間の尊厳を守るための基本的な原則であるはずです。

ところが、差別に反対する声が、特定の政治的立場に結びつけられたり、面倒な主張として扱われたりすることがあります。

外国人への偏見や排外的な言動が見られたとき、それに異議を唱えることが、かえって批判の対象になる場合もあります。

社会に不安や不満が広がると、複雑な問題の原因を、特定の人々に求めたくなることがあります。そのほうが、わかりやすいからです。しかし、そのわかりやすさには危険もあります。

本来、社会の問題にはさまざまな原因があります。それを特定の集団のせいにしてしまえば、問題の本質を見誤るだけでなく、その集団に対する差別や攻撃を正当化することにもつながりかねません。

だからこそ、差別を見過ごさず、差別に反対することが大切なのです。

伊集院さんが指摘した「あいつらのせいにしてしまおう」という考え方は、アウシュヴィッツの歴史を理解するうえでも、現在の社会を考えるうえでも、重要な警告だと思います。

過去の歴史を学ぶということは、昔の人々がどれほど残酷なことをしたのかを知るだけではありません。人間がどのような状況で差別や排除を受け入れてしまうのかを知り、同じような考え方が自分たちの社会に現れたとき、それに気づけるようになることでもあるはずです。

 

過去の悲劇を、現在と未来につなげるために

今回の『博士ちゃん』は、アウシュヴィッツの惨状を実際の映像や出演者の反応を通して伝え、戦争の記憶を継承することの大切さを訴えた、意義のある番組だったと思います。

特に、「戦争はいけない」と明確に伝えていたこと、そして伊集院光さんが、戦争の背景にある差別意識の恐ろしさを指摘していたことは、高く評価したいです。

一方で、ホロコーストの歴史を学ぶことと、現在のパレスチナの人々が置かれている状況を考えることを、もっと自然につなげてほしかったです。また、伊集院さんの発言を、現在の日本社会に広がる排外主義や差別の問題へと、もう一歩踏み込んで議論してほしかったとも感じます。

過去の歴史を記憶することは大切です。しかし、過去の悲劇を悼むだけで終わってしまっては、その記憶を十分に生かしたことにはならないのではないでしょうか。

なぜ人間は、特定の人々を敵とみなし、差別し、排除しようとするのでしょうか。なぜ社会の不満が、弱い立場にある人々への攻撃に向かうことがあるのでしょうか。そして、そうした意識が広がったとき、何が起きるのでしょうか。

アウシュヴィッツの歴史を学ぶことは、こうした問いを、今を生きる私たち自身に向けることでもあります。

ユダヤ人へのホロコーストを決して肯定しないこと。現在のパレスチナの人々の命と尊厳を軽視しないこと。そして、日本社会の中にある差別や排外主義にも目を向けること。

これらは、別々の問題ではありません。人間の命と尊厳を、民族や宗教、国籍によって差別してはならないという、同じ原則から出発しています。

「戦争はいけない」という言葉を、単なる標語として終わらせないために。そして、「二度と繰り返してはならない」という誓いを、過去に向けるだけでなく、現在の社会にも生かすために。

今回の番組をきっかけに、私たち一人ひとりが、戦争と差別の問題を考え続けていくことが大切なのだと思います。

最後までお読みいただき、ありがとうございました!

  • B!