近代史の闇~山口県宇部市の長生炭鉱事故慰霊碑を訪ねる

はじめに

皆さん今日は、たまなぎこと珠下(たまもと)なぎです。

今日も来て下さって、ありがとうございます!

たまなぎ唯一のホラーミステリー『ウラヤマ』では、三井三池炭鉱の炭鉱事故をモデルに、近代史の闇を描いています。

しかし、炭鉱の労働条件や安全対策が劣悪で、悲惨な炭鉱事故を招いたのは、三井三池炭鉱だけではありません。

山口県宇部市の長生炭鉱でも、昭和17年、大規模な事故が起きました。

今回縁あって現場を訪れることができましたので、レポートしたいと思います。

 

炭鉱で発展した宇部市(村から直接市へ)

山口県宇部市は、かつて石炭産業によって発展した「炭鉱の町」として知られています。明治時代以降、宇部炭田の開発が進むと石炭は地域の主幹産業となり、多くの炭鉱が操業しました。その繁栄ぶりは目覚ましく、宇部は通常の自治体の発展過程である「村」から「町」を経ず、1921年(大正10年)に全国でも珍しく「村から直接市制を施行」して宇部市となりました。それほどまでに、石炭産業は宇部の発展を支える原動力だったのです。

 

海底炭鉱・長生炭鉱とはどんな炭鉱だったのか

その一方で、石炭を求めて採掘は陸地から海底へと広がり、宇部市沖には海の下の石炭を掘る海底炭鉱が数多く造られました。その一つが「長生炭鉱」です。

長生炭鉱は、海岸から海の下へ向かって斜めに掘り進める「斜坑(しゃこう)」を持つ海底炭鉱でした。坑道の天井のすぐ上には海が広がっており、海底の岩盤を隔てただけの場所で採炭が行われていたため、海水の流入という大きな危険と隣り合わせでした。

 

1942年2月3日の事故

1942年(昭和17年)2月3日、坑道の一部で海底の岩盤が崩落し、大量の海水が坑内へ流れ込みます。坑内は瞬く間に水没し、作業中だった183人(朝鮮半島出身者136人、日本人47人)が犠牲となりました。海水は猛烈な勢いで押し寄せ、多くの作業員は避難することができなかったと伝えられています。

事故当時は太平洋戦争中で、石炭は軍需を支える重要な資源でした。増産が最優先され、安全対策が十分とはいえない状況の中で起きたこの事故は、戦時下の過酷な労働環境と安全管理の不備が招いた「人災」とも指摘されています。

長生炭鉱の坑道は、海底から約37m下という非常に浅い位置を掘り進めていました。

通常、海底炭鉱では海底との間に十分な岩盤(保安炭柱)を残す必要がありますが、長生炭鉱はその余裕が小さく、水圧の影響を受けやすい構造だったと指摘されています。

この事故に対しては公式による十分な調査が行われておらず、その多くが現地の市民団体などによるものですが、海底炭鉱と海底との間の岩盤が水圧によって破られたことが事故の原因になったことは、ほぼ共通認識となっています。

 

現在も続く遺骨収容への取り組み

長生炭鉱事故では183人が犠牲となりましたが、事故後に坑道は閉鎖され、多くの遺骨は海底の坑内に残されたままになりました。

長い間、遺骨収容は実現しませんでしたが、近年になって市民団体「長生炭鉱の水非常を歴史に刻む会」を中心に、本格的な調査が始まりました。2024年からは、水中探検の専門家や国内外のダイバーの協力を得て、坑口(ピーヤ)から坑内へ潜る大規模な潜水調査が実施されています。

調査では、長年立ち入ることができなかった坑道の状況が確認され、犠牲者とみられる人骨の一部が収容されるなど、大きな成果がありました。収容された遺骨については、身元確認に向けて日韓両政府がDNA鑑定などで協力する方針も示されています。

一方で、調査は極めて危険な環境で行われています。坑内は80年以上海水に浸かり続けており、狭く複雑な構造に加え、視界も悪く、安全確保は容易ではありません。2026年2月には潜水調査に参加していた台湾出身のボランティアダイバー、魏修(ウェイ・スー)さんが潜水中に体調を崩して亡くなる事故が発生しました。この事故を受け、市民団体は調査を中止し、安全対策の見直しを進めることとなりました。

犠牲者を故郷へ帰したいという願いと、調査に伴う大きな危険。その両方を抱えながら、長生炭鉱では今もなお、遺骨収容に向けた取り組みが続けられています。

 

現地を訪問して

ちょうど近くまで行く機会があったので、先日現地を訪れてみました。

海の中に2本見えている、黒い円筒形の構造物はピーヤ。坑道の排気・排水のために設けられたもので、長生炭鉱はこの下、海底のさらに地下にありました。

 

この事故は戦時中のこともあって、長く歴史に葬られたままでしたが、1976年、山口武信氏によって『宇部地方史研究』に「炭鉱における非常ー昭和17年長生炭鉱災害に関するノート」が発表されたことをきっかけに耳目を集め、1982年に殉難碑が建立、1991年「長生炭鉱の水非常を歴史に刻む会」が結成され、全国から支援を受けて2009年新たに「長生炭鉱水没自己犠牲者追悼碑」が建立されました。

こちらは今も残る2本のピーヤを模した構造になっており、日韓の犠牲者の名前が刻まれています。

 

少し分かりにくい場所ですが、この看板が目印です。

 

 

当時の炭鉱夫たちの暮らしの様子などが、写真や絵を使って、分かり易く展示されていました。

  

  

 

たまなぎは以前福岡県大牟田市の三井三池炭鉱の粉塵爆発事故に着想を得た『ウラヤマ』というホラーミステリーを執筆しており、炭鉱における労働災害の惨さはある程度知っていましたが、長生炭鉱の事故についてはあまり詳しく知りませんでした。

三井三池炭鉱の事故についてはこちら→

『ウラヤマ』裏話②戦後の三井三池炭鉱と炭塵爆発事故

皆さん今日は、珠下なぎです。 今日も来て下さって、ありがとうございます!   本日は前回の続きです。 さて、政府の肝いりで華やかな発展を遂げた三井三池炭鉱ですが、先日も書いたように、やがて石 ...

続きを見る

 

戦時中であり、人命が軽視されがちであった時代だったこともあるでしょうが、その後長く歴史の闇に葬られていたことは残念でなりません。

 

まとめ

山口県宇部市の長生炭鉱は、海底に掘られた斜坑であり、戦時中に行動と海底の間の岩盤が崩落し、海水が坑道に流れ込んで、数多くの犠牲者を出した。

183人もの死者を出す悲惨な事故だったにもかかわらず、その後長く歴史の闇に葬られてきた。

近年になって、地元の市民団体を中心に慰霊碑が建立され、遺骨の収集も始まったが、危険な場所であり、ボランティアのダイバーが亡くなるという痛ましい事故もあり、遺骨の収集は難航している。

 

最後までお読みいただきありがとうございました。

 

 

 

 

  • B!