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たまなぎブログ by LTA出版事業部

九州歴史資料館「筑紫君一族史」行ってきた①神々の時代

はじめに

皆さん今日は、珠下(たまもと)なぎです。

今日も来て下さって、ありがとうございます!

九州歴史資料館で開催中の『筑紫君一族史』何とか終了前に行くことができました!

磐井の乱に限定せず、筑紫の君一族とその周辺の歴史が時系列に分かり易い展示にまとめられており、中身の濃い展示会でした。

それでは本日から数回に分けて、たまなぎの解説付きでレポートします!

 

お出迎えのモニュメント

実は、たまなぎは九州歴史資料館に行くのはかなり久しぶり。

ですので、今年(2024年)の6月にお披露目された、九州歴史資料館のモニュメント、「鬼瓦モニュメント」に初のお目見えとなりました。

 

想像以上に大きかったです。

「鬼瓦モニュメント」のモチーフになったのは、大宰府政庁第Ⅱ期(8世紀)の甍を飾った鬼面の鬼瓦。↓

 

鬼面の鬼瓦としては日本最古のものだそうです。

 

さっそく中へ。

 

テーマ別展示の見出し

今回の展示は、第1部「筑紫君一族史」と第2部「筑紫海の日々」に分けられ、第1部がメイン。

第1部は時代順に5章に分けられていました。

総論 筑紫君一族史

第1章 甕依姫(みかよりひめ)の時代

第2章 有明首長連合の時代

第3章 筑紫君磐井の時代

第4章 筑紫国造の時代

第5章 筑紫君薩夜馬の時代

 

正直いって、たまなぎはかなりびっくり!

だって、最初から、甕依姫ですよ!

筑紫の君といえば、皆さま磐井を連想されるでしょう?

それより古い時代の、しかも『筑後国風土記逸文』にしか名の出てこない甕依姫を章のタイトルにもっていくとは、オタクの心が騒ぎます!(この後の項で解説しますね)

いや、確かに筑紫の君一族の中で、甕依姫は重要なんですけれども!

この章立てからして、テンションがマックスになったたまなぎ。足取りも軽く、展示室に向かいました。

 

筑紫の君一族とは

このブログを読んで下さっている方々には、今更かもしれませんが、筑紫の君一族についてささっとおさらいを。

筑紫の君一族は、『古事記』『日本書紀』『筑後国風土記逸文』などの歴史書・地誌に記録の残る、北部九州地方の豪族です。

磐井が一番有名ですが、個人名として残るのは、甕依姫・磐井・葛子・薩夜馬の4人がいます。

さらに、「筑紫の君」の最後の記述が歴史書に残るのは、『日本書紀』の「持統天皇」の段です。

 

八女津媛と甕依姫

歴史書の記述の中に現れる八女津姫と甕依姫

最初に展示室に入ると、まず、『釈日本紀』(鎌倉時代の写本)と『日本書紀』(江戸時代の写本)が置かれていました。

『釈日本紀』には現存しない『筑後国風土記』からの引用文(これを逸文といいます)に甕依姫の記述があり、『日本書紀』には八女津媛の記述が残っているからです。

こちらは『日本書紀』。左から3行目の中ほどをご覧ください。「八女津媛」の名がはっきりと見えますね。

景行天皇が筑紫を巡幸した際、美しい山々を見上げて「あの山に神はいるのか」と地元の豪族・水沼の君猿大海に尋ねたところ「八女津媛という神がいる」と答えた。

というお話です。

 

一方、以前でもこのブログで紹介した甕依姫。

『筑紫国風土記逸文』にはこのような記述があります。

昔、筑後の国と筑後の国の国境に狭い坂があって、ここを通る人は馬具を擦り尽くしてしまったので、鞍韉(したくら)尽くしの坂と呼ばれた。そこには荒ぶる神がいた。そこを通るものは半分が神に殺されてしまったので、「命尽くしの神」と呼ばれた。それで、当時の筑紫の君と肥の君が、筑紫の君の祖神である甕依姫を祝(はふり)としてこの神を祀らせたところ、神は鎮まった。人々はこの神に殺されたもののために棺桶を作ろうと、山の木を伐り尽くしてしまった。

「尽くし」が3回も出てくるため、これが「筑紫」の国の語源になったと言われています。

そして、その神は、現在筑紫神社に祀られています。

詳しくは↓

【天智帝の神降ろし】筑紫神社②~土着の神が降ろされたいきさつ

皆さんこんにちは、珠下なぎです。 今日も来て下さって、ありがとうございます!   さてさて今回は前回の続きです。 山から降ろされた第3の神、筑紫神社に祀られた「筑紫の神」について。 この神が ...

続きを見る

 

八女津媛と甕依姫の時代は?

八女津媛については、「景行天皇の時代」と書かれているので、時代がある程度絞り込めます。

6世紀以前の日本書紀の記述については、うのみにすると神武天皇の即位が紀元前7世紀になってしまうので正確なことは分かりませんが、景行天皇の時代はおおよそ4世紀ころと考えられています。

一方、甕依姫についてははどうでしょう?

『筑後国風土記』の記録からは、年代を推定することはできませんが、当特別展の図録『筑紫の君一族史』にはこのように書かれています。

筑紫神の奉斎がいつから開始されたのかは、『筑後国風土記』の逸文には記されていない。風土記の編纂が8世紀(713年以降)に進められたこと、『延喜式神名帳』で名神神社に列せられた由緒をふまえると、8世紀初頭以前には奉斎組織が整備されていたと把握できる。

現在の筑紫神社が鎮座する背振山地東端は、筑前・筑後・肥前の「三国の境界」に位置し、福岡平野と筑紫平野西部を隔てる丘陵地が連なる。その地勢・歴史から見て、三国の境界となる三国丘陵終点が、「鞍韉(したくら)尽しの坂」の舞台であり、「筑紫神坐(いま)す」地であった。

同地における遺跡形成を俯瞰すると、古墳時代前期~中期(3~5世紀)の生活圏は丘陵群辺縁を中心に営まれる。その中でも中心的存在であったのが、宝満川沿いに形成された津古遺跡群である。

まとめると、筑紫の神は遅くとも8世紀にはこの場所で神として祀られており、この場所は3~5世紀に発展した。甕依姫も、この時代の人物と考えられるということです。

 

古墳時代は祝(はふり)の時代だった

さて、展示室をさらに進みますと、このような可愛い埴輪さんたちが迎えてくれました。

いずれも6世紀の古墳時代の巫女の埴輪です。

左が福岡県飯塚市の小正西古墳で発見されたもの、中央が、継体天皇の墓とされる今城塚古墳で発見されたもの、右が福岡県八女市の立山山古墳で発見されたものです。

古墳時代は、祝(はふり)の時代でした。

大王・豪族は地域の代表者として神と向き合い、儀式を司り、国を治めました。

政教一致の時代です。

前項で紹介した津古遺跡群には、九州最古級・3世紀の前方後円墳である津古生掛古墳があり、大和王権とのつながりを表す鉄剣や銅鏡となどとともに、こんなに可愛い鶏埴輪さんも見つかっています。

 

祝と九州の女性首長たち~卑弥呼との関連は?

福岡県・粕屋郡志免町の七夕池古墳(大型円墳・4世紀)からは、鏡・刀・装身具と共に成人女性の遺骨が発見されているそうです。

副葬品からは、彼女が大和王権とのつながりを持つ女性首長だったことが類推されるとのこと。

 

この遺跡の方は初めて知りましたが、八女津媛の名が記された『日本書紀』景行天皇の段からは、九州に複数の女性首長がいたことが明らかになっています。

兄妹で国を治めていた土蜘蛛の女性首長・田油津媛、景行天皇とのつながりを持った神夏磯姫、そして八女津媛。いずれも4世紀ごろの人々です。

そして、筑紫の君の祖先にあたる甕依姫(3~5世紀ごろ)。

いずれもほぼ同時代、祭政一致の時代ですから、いずれも巫女的性格を有していたことが考えられます(甕依姫は「祝(はふり)」とされていますから、その性格がはっきりと描かれています)。

3世紀・卑弥呼の時代の直後に巫女的性格の女性首長が多数現れている北部九州。

これは果たして……?

 

珠下なぎの小説と筑紫の君の世界

最後にちょっと宣伝。

珠下なぎの電子書籍デビュー作『遠の朝廷にオニが舞う』には、時代背景として筑紫の君磐井が登場します。

そして本作の続編『神眠る地をオニはゆく』ではさらに、八女津媛・甕依姫も登場し、物語は神と仏、オニと人との対比をはらんで物語は壮大なスケールで展開します……!

気になった方は、ぜひこちらもご覧下さい!

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まとめ

・本記事では、九州歴史資料館の特別展示『筑紫君一族史』より第一章「甕依姫の時代」を抜粋してご紹介している。

・甕依姫は、筑紫の君一族で固有名詞を持つ者の中で最古の人物であり、荒ぶる筑紫の神を鎮めた祝(はふり)であった。

・甕依姫の時代は祭政一致の時代であり、北部九州には沢山の女性首長が存在した。

・甕依姫・八女津媛・筑紫の君磐井は、たまなぎの作品群の中で重要な時代背景として登場している。

 

最後までお読みいただき、ありがとうございました!

 

 

 

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