作品関連情報と歴史・文学・ドラマ・本・映画etc

たまなぎブログ by LTA出版事業部

磐井の故郷・八女市の童男山古墳と徐福伝説

はじめに

皆さん今日は、珠下(たまもと)なぎです。

今日も来て下さって、ありがとうございます!

 

さて、先日筑紫の君磐井の故郷・八女市に行って参りました。

筑紫の君磐井は5世紀の福岡・筑後地方で力を持っていた豪族で継体天皇と対立・磐井の乱で滅ぼされた人物です。

たまなぎの『遠の朝廷にオニが舞う』『神眠る地をオニはゆく』を読んで下さった方にはおなじみの人物ですね。

筑紫の君磐井の故郷・福岡県八女市には、筑紫の君一族に関連する古墳が何と300基もあり、一大古墳群となっています。

最古のものは、磐井の祖父の代の墓とされる石人山古墳で、それから時代が下るにつれて西から東へと順に古墳群が並んでいます。今回はその中でも最も新しく最も東にある、童男山古墳群に行って参りました!

童男山という名前にも、意外な伝説が絡んでいたことも知りました。それでは参りましょう。

 

童男山古墳の概略

童男山古墳は八女古墳群の最東端にあり、八女古墳群終末期・6世紀後半のものです。

全部で27基の円墳から成っています。被葬者は不明ですが、筑紫の君一族もしくは関連した人々と考えられています。

特徴として、石室内に石屋形(石室奥の壁に接して設けられた遺体安置場所)・石棚(石室の棚に石で作られた棚)・棺床(遺体安尾場所)・石棺(石の棺)などが多いことが挙げられているそうです。

石人石馬に代表される石文化の圏内らしい古墳です。

 

石室内まで見学できる3号古墳

最初に目を引くのは、ブロッコリーのようなこんもりした木に覆われた、3号古墳です。石室の入り口が「どうぞお入りなさい」といわんばかりに口を開けています。

 

これは入るに決まっています!入り口は狭いので、無駄に背の高いたまなぎは小さくなって入ります。

 

石室内。発掘済みなので何もありませんが、こういう空間はわくわくしますね。

石が散らばっているのは、石の構造物が壊れた跡でしょう。

 

石室から空を見上げたところ。

 

石室内から入り口をふり返ると、こんな感じです。

 

小学生のころにこんなところが近くにあったら、たまなぎは絶対秘密基地にして遊んでましたね(笑)。

でもおもちゃなどが持ち込まれた形跡はありませんでした。八女市の小学生はお行儀がいいのですね。

 

立ち入り禁止、2号古墳

石室の中まで入って見学できる古墳はなかなかないので、それだけでも貴重な童男山古墳群。しかし、入れないものもありました。

入り口にコーンが置かれています。

 

ひらがなで注意書きが。

「はいらないで! かべがくずれかけてあぶないです」

やはり小学生が入ったりするのでしょうね。

 

少し前に、古墳の耐久性がX(旧Twitter)で話題になっていましたが、差があるようですね。

それでも、1500年前の石室が崩れないまま残っているものがある、というのはそれだけでもすごいことです。

 

たまなぎは、手だけ差し込んで石室内の写真を撮ってみましたら、こんな感じです。

 

うーん暗い。でもRPGのダンジョンみたいでわくわくしませんか?

 

最大の古墳、1号古墳

童男山古墳最大の古墳へは、そこそこ長い階段を上ります。

 

1号古墳。他の古墳より一回り大きく、身分の高い方が葬られたことをうかがわせます。

 

石室に入るとすぐ、このようなものが。いや、これはおそらく後世に付け加えられたものでしょう。

 

立派な石屋形。ここに遺体が安置されたのでしょう。

 

石棚もしっかり残っています。

奥に仏像らしきものが安置されています。

 

お地蔵様(?)や仏像は後世に持ち込まれたものと考えられますが、それだけこの場所は大切にされていたことの証左でしょうね。

というのも、この場所は、単に古墳というだけではなく、もう一つの伝説の舞台でもあったのです。

 

徐福伝説と童男山の由来

なんと、この場所には徐福伝説があるのです。

徐福と言えば、紀元前3世紀の昔、秦の始皇帝に命じられて不老不死の薬を求め、東へ航海の旅に出て、そのまま帰らなかったという伝説の人物。

徐福の伝説は日本各地にありますが、ここで伝わっているお話は次のようなものです。

徐福は不老不死の薬を求めて航海に出たが、途中で船が難破し、この地に流れ着いた。村の人々が介抱し、かろうじて息を吹き返した徐福は、「私が求めていた宝物は不老不死の薬などではなくあなたがたの温かい情けだった。かけがえのない宝物を手に入れた今は思い残すことはない」と言い残し、安らかに息を引き取った。村人たちは墓を建て、火を焚いて徐福の霊を慰めた。徐福が亡くなったのが1月20日だったので、毎年火を焚く行事となった。それが今の童男山ふすべである。筑紫の君磐井一族がこの地に墓を建てた時、徐福の墓も一緒になり、それが今の童男山古墳である。

 

童男山の由来は、徐福が「童男童女三千人」とともに航海に出たと言われていることから来たそうです。

 

最近作られたものですが、徐福の像も。

 

童男山古墳1号古墳の前に、しっかりありました。童男山ふすべのあとでしょうね。

 

八女市はお茶の産地。この近くにも茶畑が広がっていてのどかです。

 

さいごに

八女には1日では見学しきれないほどの沢山の古墳があります。食べ物がおいしくて人も優しく、何度も訪れたくなる土地です。

福岡市からも近いので、また出かけたいですね。

 

最後までお読み頂き、ありがとうございました!

 

 

 

 

  • B!