はじめに
皆さん今日は、珠下なぎです。
今日も来て下さって、ありがとうございます!
さて、今日は『神眠る地をオニはゆく』の舞台編。
『遠の朝廷にオニが舞う』の冒頭の舞台でもあるので、前にも一度取り上げましたが、水城です。
以前の記事はこちら↓
皆さん今日は、珠下なぎです。 『鬼滅の刃』の鬼を考察するシリーズには、沢山のご訪問を頂き、ありがとうございました! 本日からは「歴史メモ」を少しお休みし、先月発売したペーパーバック版『遠 ...
写真で見る『遠の朝廷にオニが舞う』の舞台【水城編】
この場所は『神眠る地をオニはゆく』にはちょこっとしか出てきません。しかし、物語にとってとても象徴的な場所でもあり、近年になって新しい発見があるなどとても興味深い場所でもありますので、どうぞお付き合い下さい!
1.水城のアウトラインと四季折々の顔
水城は、国の特別史跡に指定されています。
天智天皇が白村江の戦の後、大陸からの侵攻に備えて作らせた、防衛拠点の一つです。
水城は、博多方面から大宰府方面に向かう、狭い平野部をふさぐように作られています。断面は凸の字のような形をしています。
さらに、外側と内側に堀を設け、満々と水をたたえました。外側、つまり敵が攻めて来る側の堀は何と水深4m・幅60mもあったそうです。水面から水城の一番高いところまでの高さは何と9m。これでは馬でやって来たとしても、簡単には攻め込まれません。
土塁の上層部は、土質の異なる積土を10センチメートルほどの単位で硬く締め固めて積まれた、「版築(はんちく)工法」と呼ばれる方法で作られています。また、土塁の最下層部には多量の枝葉を混入し、基礎地盤を強化する、「敷粗朶(しきそだ)工法」というやり方で作られています。この枝葉は、近代になって発掘されるまで、水底に沈んでいたたため、当時のままの緑を保っていたそうです。空気に触れるとたちまち酸化して真っ黒になってしまったそうですが……。
今は、凸の一番高い部分には桜が植えられています。
菜の花が咲いているのが、外堀の部分。春は桜のピンクと菜の花の鮮やかな黄色が、美しいコラボを見せます。
青々と桜の葉が茂った夏の水城。
そして、桜は冬枯れに近づいていますが、外堀に美しくコスモスが咲き誇った、晩秋の水城。
秋の澄んだ光が滝のように降り注いでいます。綺麗ですね~。
2.新発見! 大宰府防衛ライン
さて、一般的には、水城は博多湾方面から攻めて来る敵に備えて作られたと考えられています。
平野部を水城で塞いで大宰府を守り、敵が近くまで来たら大野城から打って出るようにと。
しかし、それならばなぜ、太宰府より4㎞も南に基肄城があるのでしょう? いざという時に逃げ込むためでしょうか?
その疑問に答える大きな発見が、2020年・瑠璃子姫の故郷である筑紫野市でなされました。
それは、前畑遺跡の発見です。
丘陵地の尾根に沿って、500mもの、7世紀に築かれた土塁が見つかったのです。
(筑紫野市HPより(川訂正)現地説明会一般向け.indd (city.chikushino.fukuoka.jp))
黒い実線部分が既に発見されている城や土塁。赤い点線が2020年に見つかった前畑遺跡の土塁。
水城と同じ工法で作られており、しかもこの土塁は東側が急峻であり、東側から攻めて来る敵を想定していたことが分かります。
これらから、太宰府は羅城(らじょう)だったのではないか、と専門家は考えているそうです。
羅城とは、中国を中心に、都市を守るために発達した防衛機構で、都市をぐるりと城壁や土塁で囲んだものです。
瑠璃子姫は、『神眠る地をオニはゆく』の冒頭の時点で、この羅城の中から一度も出たことがなかったことになりますね。
瑠璃子が水城の東門をくぐり、宗像へと旅立つ場面。この場面もまた違った目で見て頂けたらと思います。
話を元に戻しますと、大宰府に羅城があったと考えると、基肄城と大野城に対する見方も変わってきます。
長くなりますので、それはまた次の記事でご説明したいと思います。
最後までお読み頂き、ありがとうございました!