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謎の女神・八女津媛の真相に迫る④「日向神神話」から八女津媛信仰へ

皆さん今日は、珠下なぎです。

今日も来て下さって、ありがとうございます!

八女市の矢部地域に語りつがれてきた、知らざれる天孫らの「日向神神話」。

本日は「日向神神話」から八女津媛への系譜をたどってみることに致しましょう。

 

1.火明命の死

前回の記事でご紹介したように、この地で木花咲耶姫が三人の御子を生んだ後、海幸彦・山幸彦の二人は日向へ戻ります。しかし、木花咲耶姫と瓊瓊杵尊・火明命はそのままこの地にとどまり、死後、福岡県と大分県の県境あたりに葬られたことになっています(前回の記事はこちら↓)

ということになると、火明命はこの地で生まれ、この地で亡くなったことになります。当然結婚もし、子どもももうけたことでしょう。

そして、八女津媛が正史に登場するのは、第12代景行天皇の時。初代神武天皇が、火明命の兄弟である山幸彦の孫ですから、かなり時代は下っています。ですが、日向神(火明命)がこの地に根付いたことを考えると、「常に山中にいます」とされた女神・八女津媛が、日向神に連なる系譜であるということは、結構的を射た推理であるかもしれません。

 

2.八女津媛信仰の実態

八女津媛信仰で有名なのは、毎年秋に行われる浮立(ふりゅう)です。

浮立は、佐賀・長崎・福岡の一部に伝わる伝統的な民俗芸能です。

解説
景行天皇巡幸の時、この地に女神あり常に山中にある、その名を八女津媛と云うと奉上したことから八女の地名が起こったと云う伝説があります。平安朝末頃600年~700年前から浮立奉納が始まりました。
八女津媛神社の浮立は、神社に五穀豊穣や無病息災を祈願し、その御願成就に奉納する行事です。浮立は、県内でも最大規模の祭りで、筑後地方に伝わる風流の集大成された形と考えられています。祭りは、七戸の神課(神家)によって代表され、編成は、笛方、真法師、太鼓打、小太鼓打、鉦打、むらし、猿面、御幣持などの外、思い思いに仮装した老若男女が囃子方に多数参加します。現在は、小中学生により毎年11月の矢部まつりに披露しています。八女津媛神社の氏子による本来の浮立は5年に1回奉納公開されています。(次回公開予定:令和6年11月)

(引用元;八女津媛神社の浮立/八女市ホームページ (city.yame.fukuoka.jp))

 

 

 

浮立は、氏子たちも正装して参加し、最後には八女津媛が五穀豊穣と村人の幸せを約束する流れになっています。

 

浮立を仕切るのは「真法師」と言われる人で、比叡山で仏教の修行を積んだ方です。真法師は「国家安全・国土安穏・五穀豊穣・御願成就」の持ちが書かれた大唐団扇を持ちます。

八女津媛の他にも七福神などが登場したり、仏の縁を表す五色の布が使われたりと、神仏混交のお祭りとなっています。これは、急峻な山を持つ矢部地方が、修験道の地でもあったこととかかわりがあると言われています。修験道自体が、神仏混交の宗教であるからです。

 

3.荒魂から農業神へ

このように、八女津媛は、農業神としての性格を強く持っています。

八女津媛神社のある矢部地方は、大変急峻な山に囲まれた谷にあります。

農業には多大な苦労を必要とする土地で、先人たちは矢部峡谷に「棚田」を作り、農耕を行ってきました。また、南北朝の騒乱の時期には南朝の拠点にもなり、戦乱に巻き込まれた地でもあります。

そんな中で、土地の女神である八女津媛に、五穀豊穣や国家安全を願ったのは、無理からぬことと思われます。

 

ところが、もともと、「大城村誌」にあるように、八女津媛は田心姫(宗像三女神の長女)の荒魂として現れたとあり、荒々しい、怨霊としての性格も持った女神であることが分かります。

それが、農耕の厳しい土地での、五穀豊穣を祈る人々の信仰を集め、神仏混交の修験道の影響も受け、厳しい戦乱の中で、やがて豊作と国家の安全を約束する平和的な女神へと変遷していったのだと思われます。

 

最後までお読みいただき、ありがとうございました!

(参考文献: 牛島頼三郎『奥八女 矢部峡谷の棚田考』梓書院,2020年)

 

 

 

 

 

 

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