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たまなぎブログ by LTA出版事業部

福岡の勅祭社・香椎宮④応神天皇誕生の謎

皆さん今日は、珠下(たまもと)なぎです。

今日も来て下さって、ありがとうございます!

 

今日は前回の続き。神功皇后についてです。

なぜ神功皇后は怨霊形式の神社に閉じ込められているのか?

その大きな謎はまだ残っています。

しかも、この方はまた色々謎の多い皇后で、この方についてだけ書かれた本が幾冊もあるような方なのです。

 

けれど、一番の謎は、「仲哀天皇崩御の前後に、何があったか」ということではないでしょうか。

そして、古代史に興味のある方はお聞きになられたこともあるかもしれませんが、「応神天皇誕生の謎」。

 

今回は、これについてお話したいと思います。(私はここに、神社の謎を解くカギがあるのではないかと個人的に考えています)

(注意:天皇家の万世一系についての懐疑的な表現があります。苦手な方は自衛をお願い致します)

 

1.仲哀天皇と神功皇后

仲哀天皇は日本武尊(ヤマトタケルノミコト)の第2子。「容姿端正で身の丈は10尺あった」と書かれています。

神功皇后は、開化天皇の曽孫、気長宿禰王(おきながすくねのおおきみ)の娘。「幼い時から聡明で、叡智であらせられ、容貌も優れて美しかった」と日本書紀には書かれています。

仲哀天皇が神功皇后を熊襲征伐に同行させていることからも、夫婦仲は良かったと考えられています。

 

ところが、前回も述べたように、仲哀天皇は皇后を介した神託を信じず、香椎宮で亡くなってしまいます。

 

2.応神天皇の出生

仲哀天皇が亡くなった後、神功皇后は熊襲を従わせ、九州のまつろわぬ民である羽白熊鷲や土蜘蛛の田油津姫を次々と討ち取り、さらには海を越えて新羅へと向かいます。

ちょうどこの時、皇后は臨月を迎えていました。それで皇后は筑紫を発つ前に腰に石を挟み、「事が終わって還る日に、ここで産まれてほしい」と祈ったと日本書紀には書かれています。

 

神功皇后は帰国後、筑紫で後の応神天皇を生みます。応神天皇が生まれたとされるのが、福岡県粕屋郡宇美町の宇美八幡宮ですが、これはまた別の機会に。

 

ところが、この応神天皇は、仲哀天皇の亡くなった日からからちょうど測ったように十月十日で生まれているのです。

もし、仲哀天皇の亡くなる前に神功皇后が妊娠していたとすれば、応神天皇は通常の妊娠期間を超えて胎内にいたことになります。

現在は41週、つまり288日までを正常の妊娠期間としますが、これは最終月経の初日を0日とした日数。

妊娠が成立する性交渉はその14日後前後に行われることが多いので、性交渉から数えると約274日。

一方、太陰暦で十月十日は約29.5×10月+10日で305日です。仲哀天皇が亡くなった日に妊娠が成立したとしても、現在の数え方で言えば約45週。これは自然な妊娠経過ではありえない週数です。

当時としての「妊娠期間は十月十日」に合わせ、ぎりぎり仲哀天皇の死亡した日と整合性を取っていることと言い、腰に石をつけて出産を遅らせたというエピソードといい、作為的なものが感じられます。

事実、一部の説では応神天皇は仲哀天皇の子ではない、という説は、今でも根強く残っているのです。

 

3.『住吉大社神代記』のショッキングな記述

摂津の国の住吉大社(大阪市住吉区住吉)には、『住吉大社神代記』という文書が伝えられています。

住吉大社の神様は、住吉三神(底筒男命・中筒男命・表筒男命)です。

この神様たちは、仲哀天皇に神功皇后を通じて神託を下した神様の一部です。仲哀天皇の死後、再び香椎の宮で神を呼ぶ儀式を行い、先日仲哀天皇に神託を下した神の名を訪ねたところ、この三柱の神の名が最後に告げられました。ですので、神功皇后・仲哀天皇夫妻に縁の深い神様と言えます。

この『住吉大社神代記』の巻末には「天平三年(731年)7月5日、津守宿禰嶋麻呂(つもりすくねしままろ)、津守宿禰客人(まろうど)」の署名があり、917行にも及ぶ本文が書かれているのですが、その中にこんなショッキングな一文があります。

「ここにおいて、皇后、大神と密事(ひそかごと)あり(俗に男女の密事を通はすという)」

 

また、『日本書紀』にも、仲哀天皇に神託を下した神が、「今、皇后初めて孕みませり」という一言があります。

『日本書紀』の一言は、皇后が仲哀天皇の子を身ごもり始めたことを住吉大神が指摘した、と素直に読むことも可能ですが、『住吉大社神代記』の一文は、はっきりと皇后と神の間に男女の関係があった、と断じているわけですから、穏やかではありません。

 

もちろん、反論もあります。

『住吉大社神代記』は、訓点が使用されているため、成立は10世紀以前にはさかのぼれないとされており、署名と矛盾することから偽書とする説もありますし、神功皇后の長すぎる妊娠期間については、倍年歴を用いることで説明がつくとする説もあります。

(倍年歴とは、『魏志倭人伝』の記述などから、古代の日本では春と秋の到来を以て一年としていた、つまり古代の2年は現在の1年とする説です。定説とは言い難いものの、これを使うと異常に長い天皇の在位期間の説明などがつくため、しばしば古代史においては用いられています)

 

けれど、成立年代に疑問はあるにせよ、『住吉大社神代記』は、現在重要文化財に指定され、古代史研究においても重要な資料と位置付けられています。

それに神功皇后と住吉大神の間に密通があり、応神天皇は住吉大神の子であると匂わせられている。

これが事実であれば、神武天皇以来今上天皇まで、天皇家は男系の万世一系であるという前提が崩れることになります。(もっとも、出自の怪しい天皇は応神天皇だけではありません。継体天皇や顕宗天皇あたりも出自はかなり怪しく、天皇家の万世一系自体も疑おうと思えばいくらでも疑えるのですが、それでも一応『記紀』では男系でつながっていることにされています)

もっとも、神が神功皇后を妊娠させた、というのはもちろん荒唐無稽な話。では、応神天皇の父親はいったい誰なのでしょう。

次回はそれについてお話したいと思います。

 

最後までお読みいただき、ありがとうございました!

 

 

 

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