歴史

【天智帝の神降ろし】シリーズざっくりまとめと、結構重要なおまけ

皆さんこんにちは、珠下なぎです。

今日も来て下さって、ありがとうございます!

 

さて、前回までの「天智帝の神降ろし」シリーズには、沢山の反響を頂きました。

マニアックな記事にも関わらず、興味を持って下さってありがとうございます。

このシリーズ、「面白いけど少し分かりにくく難しい」というお声を頂きました。

そこで、今回は少し雑ですが、導き出された結論を簡単にまとめてみることにしました。

また、記事を書いているうちにある重要なことに気付いたので、ちょっと付け加えたいと思います。

 

1.白村江の戦いの前後、斉明帝・天智帝母子が北部九州で行ったこと

二人が白村江の戦い前後に行ったのは、ずばり、在地の神々を排し、大和朝廷を中心とした祭祀体制を整えることだったのではと私は推定しています。

天智天皇は在地の神々が祀られていた山々に山城を築かせ、神々は移動させて祀り直しました。

斉明天皇は朝倉の社の木々を伐り払うという、在地の信仰を破壊する行為を行いました。

 

2.天智天皇が降ろした神々

天智帝が降ろした(もしくは降ろしたと推定される)神々については、3つの神社に分かれており、元の場所も異なるため、表にまとめました。

今までの記事の理解の一助になれば幸いです。

主祭神 元の場所 降ろした人 降ろされた時期
王城神社 事代主神 四王寺山
(大野城)
天智帝 665年
春日神社 天児屋根命
(武甕槌神?)
四王寺山
(大野城)
天智帝 665年
筑紫神社 筑紫の神 基山
(基肄城)
 ?
(推定天智帝)
奈良時代以前

注;私は王城神社・春日神社の神々は、大和王権とは関わりのない、在地の神々だったのではと推定しています。詳しくはこちらをご覧ください↓

 

3.記事を書いていてふと思いついたこと~斉明帝と天智帝の行為の差

天智帝と斉明帝が行ったことは、一見逆に見えます。

斉明帝が行ったのは、信仰の破壊です。

社の木を伐り払う、という行為は、私たちが思う以上に重要な意味を持っています。

社殿が整えられる以前は、巨木や巨石を神そのものに見立てたり、神の依り代として祀ったりしました。これを神籬といいます。

ですから、神社の木を伐るという行為は、神そのものの破壊と言っても過言ではないでしょう。

ところが、天智帝は神々を元の場所から移動はさせたものの、祀り直している。

一見天智帝は、在地の信仰を尊重したように見えます。

けれど私はそうではないと思います。

本当は天智帝も、山城を築く際に、祀られていた神々を破壊したかったのかもしれません。

けれど、斉明帝の行為の後には、雷神が怒って宮を破壊したり、鬼火が出現して病人や死人が出たりします。

そして斉明帝自身も亡くなってしまい、しかもその殯を鬼が山の上からのぞくという、不気味な事件が起こります。

天智帝は、在地の神々の祟りを恐れたのではないでしょうか。

斉明帝は高齢とはいえ、2度も帝位に就き、30代で3回の出産という当時としてはかなりの高齢出産にも耐えた女傑。体力もかなりあったでしょう。それが突然死んでしまったのは、破壊した神の祟りと考えた可能性もあります。

戦略的に重要な場所に、在地の神々を置いておくわけにはいかない。

けれど乱暴な破壊行為を行うと、母のように祟りに遭い、命を落とすかもしれません。

だから危険な神々は新たな場所に祀り直して封じ込めた。

神を「祀る」という行為には、危険な神々を「出られないようにする」意味もあります。話すと長くなりますが、北野天満宮の菅原道真公などはその典型です。

こうすると、一見矛盾する母子の行動も、在地の信仰を破壊し、かつ大和朝廷の支配を盤石なものにするという意味では一貫していると見えるのです。

 

最後までお読みいただき、ありがとうございました!

 

 

 

 

 

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