皆さんこんにちは、珠下なぎです。
今日も来て下さって、ありがとうございます!
さて、今回は前回の続き。大宰府にある古社・王城神社の続きのお話です。
前回の記事はこちら↓
1.事代主とはどのような神様か
さて、前回の記事でご紹介したように、王城神社は、もともと四王寺山に神武天皇が祀っていた事代主(ことしろぬし)・武甕槌(たけみかづち)の2柱の神を、天智天皇が大野城を築いた際に移した時に作られました。
この時事代主を祀ったのが王城神社で、武甕槌は春日市の春日神社に祀られたのですが、これは春日神社を取り上げた時にお話ししましょう。
神武天皇がこの2柱の神を筑紫の四王寺山に祀ったというお話は、『古事記』にも『日本書紀』にも記載されておらず、春日神社と王城神社の伝承のみです。
そもそも本当に四王寺山に祀られていたのはこの2柱の神だったのか?
私はふと疑問に思いまして、この2柱の神と神武天皇との関係を調べることにしてみました。
というのは、事代主は、出雲神話に出てくる神様で、出雲の主だった大国主命の長男。
高天原の使者が大国主に「出雲の国を譲れ」と迫った(実質的には侵略)時、弟の健御名方神は抵抗し、最後は武甕槌神に敗れて諏訪に閉じ込められます。
ところが、事代主はあっさりと国譲りを認め、のんびり釣りを続けます。
釣りをしていたというエピソードから、漁業の神とされ、後には本来は海からより来る神霊であった「えびす」と同一視されるようになります。
王城神社のご神木の根元にえびす様が祀られていたのはこういうわけだったのですね。
このように、武甕槌と事代主は、反対の立場で「出雲の国譲り」に関わった神。
しかも、神武天皇自身は、「出雲の国譲り」には直接的には関わっていません。
ではなぜ、神武天皇はこの2柱の神を一緒に祀ったのでしょうか。
2.神武天皇と事代主の関わり
『日本書紀』には次のような記述があります。
庚申の年秋八月十六日、天皇は正妃を立てようと思われた。改めて貴族の女子を探された。時にある人が奏して、「事代主神が、玉櫛姫と結婚されて、生まれた子を名付けて、媛蹈鞴五十鈴媛命(ひめたたらいすずひめのみこと)といい、容色すぐれた人です」という。これを聞いて天皇は喜ばれた。
九月二十四日、媛蹈鞴五十鈴姫を召して正妃とされた。
(引用元;『全現代語訳日本書紀』(講談社))
つまり、『日本書紀』によると、事代主は神武天皇にとっては舅に当たる、というわけです。
けれど、『古事記』の記述は少し違います。
三輪の大物主の神が、セヤダタラヒメという美少女を見初め、この美少女が厠で用を足している時(しかも大きい方!)、自らの身を矢に変えて、少女の陰部を突きました。
少女が驚いてその矢を持って帰ると、その矢は立派な男性に変わって少女と結婚しました。
やがて女の子が生まれました。名はホトタタタラススキノヒメ、後の名をヒメタタライスケヨリヒメと言います。この子は神の子とされ、神武天皇の皇后となりました。
(『古事記 全訳注』(講談社)より筆者要約)
大物主は大国主(=事代主の父)と同一視されますから、この記述によると事代主は神武天皇の義兄弟ということになりますね。
しかし、神武天皇の妃が、出雲系の女性であったことは疑いないでしょう。
それはその名にも表れています。
日本の中でも早くからタタラ製鉄を取り入れ、産鉄の都として強大な力を持っていた出雲。
また、五十鈴は、産鉄の材料である褐色鉱が水生植物の根についた様が、たくさんの鈴が集まっているように見えることから来ていると思われます。
(古代製鉄と鈴についての記事はこちら↓)
これを考えると、事代主を神武天皇が祀ったというのは、まあ、そう不思議でもないわけです。
詳しくは後日お話しますが、武甕槌は神武天皇の夢に現れ、剣を授けたエピソードがあります。
3.猿田彦との関わり
さて、前回の記事のラストで出した、猿田彦。
王城神社には、猿田彦もご神木の根元に祀られていました。
猿田彦は、天孫・邇邇芸命が天下りした時、葦原中国までの道案内をした神様。
背が高く鼻が長く赤ら顔で、非常にユニークな外見を持った神様。
猿田彦には最初、天宇受売神(あまのうずめのかみ)が相対しますが、この時天宇受売神は胸や陰部を露わにしたと古事記に書かれています。
天宇受売神は天照大御神が素戔嗚尊の乱暴に怒って岩戸に隠れた時も、胸や陰部を露わにした踊りを踊って、天照大御神を引っ張り出す立役者となった女神。
この動作は性的な動作とも、あるいは女陰の神的なパワーを使っての威嚇とも取れますが、後に二人は結婚します。
征服される側の国津神の立場でありながら、天津神の征服に手を貸した猿田彦。
彼は裏切り者と言われることもあれば、天宇受売神との結婚によって天津神と国津神の和解の立役者となったと見られることもあります。
道案内の神であり、天宇受売神との夫婦神ということから、後に道祖神として、辻などに祀られるようになり、夫婦和合や旅の安全などを祈る、民間信仰の対象となりました。
王城神社に猿田彦が祀られていたのは、単なる民間信仰を取り入れたものかもしれません。
けれどこの猿田彦、天津神を先導した後、海の中で貝に手を挟まれ、おぼれて死んでしまいます。
貝が女陰を思わせること、天宇受売神に性的に誘惑されたともとれる記述があることから、被征服民の立場から古代史を研究している沢史生氏は、「王権側に色仕掛けで利用され、用済みになったら捨てられたことの象徴」という解釈をしています。
だましうちや、敵の内部に内通者を作るなどの手法は、熊襲の首長の娘をたらしこんで父を討たせた景行天皇や、女装して熊襲の宴会にしのびこんだヤマトタケルなど、古代の王権の常とう手段であったことを考えると、こういう解釈も的外れとはいえません。
こうやって王権側に利用された被征服者の神が祀られていること、天智天皇がわざわざ「神を山から降ろした」ことを行ったことなどを考えると、この神社の創建には、まだ色々謎が隠されていそうな気もします。
というのは、この時山から降ろされたのは、武甕槌と事代主の2柱の神だけではないからです。
それについてはまた後日お話しようと思います。
最後までお読みいただき、ありがとうございました!