皆さんこんにちは、珠下なぎです。
今日は前回に引き続き、大宰府の西北の丘で見つかった、足を折られた土馬の謎についてお話したいと思います。
大宰府で見つかった土馬は7世紀後半のものです。
一方、中央政府が残した文書に、次のような記述があります。
8世紀初頭に成立した律令の「神祇令」には、恒例の祭祀として宮城四方外角での「鎮火祭」、京城四隅道上での「道饗祭(みちあえのまつり)」の名があり、10世紀の「延喜式」には、「宮城四隅疫神祭」などが記されています。
つまり、疫病や災厄は外から疫神が運んでくるとの信仰から、都に入る境界の場所で疫神が乗ってくる馬の脚を折ったり、疫神にご馳走したりして、疫神が都に入ってくるのを防ぐ、という儀式は8世紀以降の中央で広く行われていたことが分かるのです。
そして、大宰府に残された土馬は7世紀後半のもの、つまり大宰府の方が古いものです。
「遠の朝廷にオニが舞う」の世界⑤、⑥でも触れたように、疫神信仰は古代中国に端を発し、6~7世紀ごろから次第に日本に輸入されて浸透していったと考えられています。
つまり、古代中国の疫神信仰は古代中国からまず九州地方に伝わり、その後徐々に中央に伝わっていったと考えられるのです。
古代において九州は、大陸に近い分、歴史の最先端だったんですね!
以下ちょっと作品の内容に触れます。(未読の方は注意!)
「遠の朝廷(みかど)にオニが舞う」で、医薬に通じた百済僧・法蔵が、大宰府の西北で疫鬼の侵入を防ぐため、土馬の脚を折り、食べ物で疫鬼をもてなす、という儀式を行う描写がありますが、この場面はこれらの歴史的事実を下敷きにしています。
ちなみにこの機会にお断りしておきますが、百済僧・法蔵は天武帝の時代に実在した、医薬の知識に優れたとされる僧ですが、法蔵と武蔵寺との関わりは完全に作者のフィクションですのでご了承下さい。(法蔵が武蔵寺にいたという事実はありません)
最後まで読んで下さって、ありがとうございました!
(参考文献:森弘子著『太宰府発見』(海鳥社))