はじめに
皆さん今日は、珠下なぎです。
今日も来て下さって、ありがとうございます!
さて、本日は前回の続きです。
前回の記事でちらりとご紹介した、松本清張の『万葉翡翠』。
前回の記事で述べたように、日本各地で見つかった翡翠は、国産ではなく輸入品だと長く考えられていました。
(前回の記事はこちら↓)
はじめに 皆さん今日は、珠下(たまもと)なぎです。 今日も来て下さって、ありがとうございます! さて、チェリまほ記事が続きましたが、本日は久しぶりに歴史記事です。 本日は、古代のパワース ...
古代のパワーストーン、翡翠①(不思議な力と消滅の謎)
しかし、1935年の翡翠の再発見後、今までに発見された翡翠の珠が国産のものだということが定説になるには、長い年月を要しました。
そんな中で早くから国産の翡翠が勾玉や管玉の材料として利用されていたことを指摘した人物がいます。
それは考古学者ではなく、推理作家の松本清張氏でした。
松本清張『万葉翡翠』
『万葉翡翠』の概略
『万葉翡翠』は1961年に雑誌『婦人公論』で発表された短編です。
前回の記事でもご紹介した万葉集の歌「沼名河之~」をヒントに、実在の「ヌナカワ」と翡翠を求める探索の旅が、やがて殺人事件へと発展していく……という短い物語です。
(現代ミステリー短編集7『殺意』(岩崎書店刊)より『万葉翡翠』)
万葉種「沼名河の~」への先人の考察
「ぼくはね、万葉考古学をやりたいと思っていた時期があったよ」
この物語は、若い考古学助教授の八木修蔵氏が、考古学を趣味とする三人の研究生を前にこんなセリフを放つシーンから始まります。
万葉集に織り込まれた字句から、古代の生活を探求しようというのです。
ここで紹介されるのが例の歌です。
淳名河の 底なる玉 求めて 得まし玉かも 拾ひて 得まし玉かも あたらしき 君が 老ゆらく惜しも
八木助教授は、この歌についての先学のひととおりの解釈を披露します。
江戸中期の国学者・契沖の『万葉集代匠記』では、ぬな川はどこの国の地名か分からないが、綏靖天皇の和名「神淳名川耳尊」の由来と同じものとしています。また、玉は人をたとえたものだとしています。
同じく江戸時代の国学者・鹿持雅澄は、『万葉集古義』の中で、淳名河は天安河の中にある淳名井と同義である。淳は本来は珠を意味する「瓊」であって、底に玉のある井である、と述べています。
橘千蔭も同じように、淳名河は玉のある川を指し、古事記の神功紀の記述から、この場所は摂津国の住吉郡だとしています。
歌人の佐々木信綱・大正~昭和期の国学者の武田祐吉は、いずれも淳名河は実在の地名ではなく、天上の川のことだとしています。
民俗学者の折口信夫は、この歌を、沼名河の底にある玉を、愛しい人の優れた容色に喩えて、それが老いによって失われるさまを嘆いたもの、と解釈しています。
おおざっぱにまとめると、この時点では、「沼名河」は架空の地名もしくは場所不明の地名とされ、唯一場所の推論をした橘千蔭も、摂津の国住吉郡=現在の大阪市付近だと考えていたことが分かります。
松本清張氏の論
ところが、八木助教授は、異論を唱えます。
ここで八木助教授が持ち出してきたのがなんと『古事記』。
「此の八千矛(やちほこ)神、高志(こし)の国の沼河比売(ぬなかわひめ)を婚(よば)はんとして、幸(みゆき)行でましし時、其の沼河比売の家に至りて歌ひたまひしく、
八千矛の 神の命(みこと)は八島(やしま)国 妻枕(ま)きかねて 遠遠し 高志の国に 賢(さか)し女(め)を 有りと聞かして麗(くわ)し女を有りと聞こして さ婚」(よば)ひに あり立たし」
八千矛神=大国主命は、大変な好色で知られていました。
『因幡の白兎』で知られる、評判の美女、八上比売(やがみひめ)を妻にした後も、素戔嗚の娘・須勢理比売(すせりひめ)など、数多くの妃を持ちます。宗像三女神の長女・田心姫(たぎりひめ)も大国主命の妻の一人です。
大国主命は、これだけの妻を持っても満足せず、高志の国に賢く美しい姫がいると聞いて求婚に来ます。
それが沼名河比売です。
この「沼名河」という名に八木助教授は注目します。
これは人の名ですが、倭名抄に沼川郷(ぬまかわごう)という地名があること、奴奈川神社という式内社が存在していることを助教授は指摘します。
いずれも新潟県内で、高志(こし)=越の国、現在の富山から新潟・長野にかけての地域に一致します。
つまり、沼名河は、実在の地名で現在の新潟県あたりではないか。
そして、瓊=珠のある川、つまり貴重な石の出る川だったのではないか。
そして、この歌が失われる若さを嘆くという歌であることから、この歌に詠まれた石は若さと青春を連想させる碧の石=翡翠であると類推します。
つまり、新潟県の糸魚川地域は、翡翠の産地ではなかったのか。
こう結論付け、探索の旅を始めるわけです。
「万葉翡翠」からわかることとその後の考古学
この短編には、このようにも書かれています。
「この翡翠は、当時は日本にはなく、中国から輸入されたものだ、というのが定説になっている」
20世紀になって国産の翡翠が再発見された1928年から30年以上たった1961年でも、日本各地で見つかる翡翠は、輸入品だと考えられていたことが分かりますね。
若さを連想させる緑色の石だから翡翠だ、というのはいささか牽強付会にすぎる気はしますが、実際にその後の考古学の発展で、糸魚川が翡翠の産地であり、それが全国に威信財として流通していたことが分かったのですから、松本清張氏の推理はほぼ的中していたことになります。
これはすごいことですね。
『万葉翡翠』はごくごく短いお話ですので、興味のある方はぜひお読み下さい。
松本清張と邪馬台国
このお話でも分かるように、松本清張氏は古代史に並々ならぬ関心を抱いていました。
『万葉翡翠』の5年後、松本清張氏は雑誌『中央公論』に『古代史疑』の連載を始めます。
松本清張氏が本格的に持論を展開した最初の作品で、以後も清張氏は古代史の探求に邁進し、1976年には『邪馬台国ー清張通史1』を著し、専門家からも注目を集めます。
現在では様々な批判を浴びていますが、アマチュアの立場から様々な事実を元に推理を積み重ね、邪馬台国九州説を唱えたことは注目され、邪馬台国ブームの火付け役とも言われています。
こちらはたまなぎは未読ですが、時間ができたら読んでみたいですね。
さいごに
翡翠のお話はまだまだ続きます。
今回のキーワードとなった「ヌナカワ」。
次回は新潟県に伝わる、奴奈川姫の伝説をご紹介します。
最後までお読み頂き、ありがとうございました!