はじめに
皆さん今日は、珠下なぎです。
今日も来て下さって、ありがとうございます!
さて、先日(といってもだいぶ前ですが)、太宰府市周辺を歩き回る機会があり、菅原道真公の意外な足跡を発見しました。
道真公は文武両道に優れ、特に弓の名手だったと伝えられています。
しかし、文章博士であり、「学問の神様」としての印象が強いためか、あまりマッチョなイメージはありません。
ところが、道真公の意外な一面を見ることの出来る史跡が、道真が晩年を過ごした太宰府市の隣の、筑紫野市に残されていました。
今日はそれをご紹介しましょう。
晩年の道真公と梅が枝餅の由来
その前に、ざっと道真公の生涯をおさらいしましょう。
道真公は、平安時代の845年の生まれ。幼少時から学問の才を発揮し、33歳で学者としての最高位である文章博士にまで上り詰めます。宇多天皇に重用され、次の醍醐天皇の代には、右大臣にまで上り詰めます。
しかし、もともとの身分があまり高くなかったことから、藤原氏に疎まれ、藤原時平の讒言により、大宰府へ左遷されます。大宰府で道真が住んでいたといわれる場所がここ。
現在は、「榎社」という神社になっています。
見てのとおり、参道はすがすがしいほどにまっすぐですね。
道真公は大宰府天満宮では怨霊神として、とても厳重に祀られています。参道は直角に曲がり、参道から本殿に至る道には池が設けられています。
(怨霊を祀った神社の特徴について知りたい方はこちらへ↓
常陸国風土記,戸矢学,沢史生,封霊四法,御霊信仰,怨霊神,夜刀神 (ltap.website)
けれど、ここはそうではありません。
それもそのはず、もともとここは、1023年、大宰大弐であった藤原惟憲が道真の霊を弔うために建てた「榎寺」が始まり。現在は太宰府天満宮の「飛び地」となっています。
太宰府天満宮のホームページでは、祭神は明らかにされていませんが、本殿の後ろに「浄妙尼社」があります。
この浄妙尼は、晩年の道真公をお世話したと伝えられる人物です。食事にも事欠いた道真公のため、餅を梅の枝に刺して差し入れたという伝説から、太宰府天満宮の名物・梅が枝餅が生まれました。
道真公はこの地で、同行していた幼い息子・隈麿を病で亡くします(詳しくは次回の記事で)。
そして、自らも赴任からわずか2年後、病にかかり、59歳の生涯を閉じるのです。
意外な武勇伝・鯰退治
こうしてみると、憔悴しきったまま、空しく世を去った寂しい姿ばかりが連想されてしまいますが、意外な伝説がお隣の筑紫野市に残されています。
それが、鯰石です。
案内板には、このように書かれています。
「鯰石
この巨石には一つの昔話が伝わっています。むかしむかし、このあたりは葦がおいしげる沼地でした。ある時ここを通りかかった菅公(菅原道真)は、大鯰に道を防(ママ)げられたので腰の刀を抜き斬ったところ不思議にも、この鯰が飛び散って三つ(頭・胴体・尾)の石になったと伝えられています。このことから、「鯰石」という地名も今なお残っています。 筑紫野市教育委員会」
こちらが案内板と頭。
頭を別の角度から見たのがこちら。
こちらが胴体。後ろの家と比較してれば分かるとおり、めちゃくちゃ大きいです。
そしてこちらが尾。住宅街の中にちょこんとありますので、見逃しがち。
この大きさから察するに、大鯰は10メートル近くあったと思われます(笑)。
衣食もままならず引きこもっていたのに鯰退治とは……。
しかも10メートル近い鯰をぶった切るとは、すさまじい腕力と気合が必要だったはず。
この鯰、特に悪さをしたとか地震の原因になったとか(笑)そういう話が伝わっているわけでもないのですよ。
ただ、道真公の行く手をふさいだだけ。
それを切り捨てご免とは、道真公もなかなか……いや、もしかして、八つ当たり!?
「ふざけんな時平め、なんで有能なオレが、こんな辺境に流されなきゃらないんだよぉ!」と荒れた道真公のとばっちりをくらったのが鯰だったとしたら、鯰もとんだ災難ですね……知らんけど。
ちなみに、鯰石の胴体、現在はきれいにフェンスで囲まれていますが、つい4年前までは、民家の塀にめりこんでいたそうです(笑)。
といっても、民家の方が後にできたのでしょうから、この土地を買った人が塀を建てようとするとどうしてもこういう形になってしまったのでしょう。
その民家はかなり古かったようですから、取り壊されて今のような形になったようです。
民家の壁にめり込んだ衝撃画像を見たい方はこちらへどうぞ。地元の不動産のHPです。
菅原道真がぶった切った鯰(なまず)が今でも残っている?!|三好不動産 (miyoshi.co.jp)
最後までお読みいただき、ありがとうございました!