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たまなぎブログ by LTA出版事業部

基山再々挑戦(北帝門へ)~たまなぎやらかし日記

皆さん今日は、珠下(たまもと)なぎです。

今日も来て下さって、ありがとうございます!

 

さて、天智天皇が白村江の戦い後に作らせた山城・基肄城。

2度目の挑戦で基山の主な史跡はコンプリート! と満足して帰ったたまなぎ。

(2度目の挑戦時の記事はこちら↓)

基肄城、史跡コースに再挑戦①

皆さん今日は、珠下(たまもと)なぎです。 今日も来て下さって、ありがとうございます!   さて、少し前の話ですが、今年のGWを利用して、基肄城に再挑戦して参りました。 以前訪れた時の記事はこ ...

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基肄城、史跡コースに再挑戦②丸尾礎石群~山頂~タマタマ石

皆さん今日は、珠下(たまもと)なぎです。 今日も来て下さって、ありがとうございます!   今日は前回の続き。 白村江の戦い後、天智天皇が大陸からの侵攻に備えて作らせた山城・基肄城。 史跡コー ...

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ところが、帰って写真を見直してから、とんでもないことをやらかしたことに気づいたのです。

 

1.見落としていた、正面玄関

帰って来てからのたまなぎは、何度も撮った写真と地図を見比べながら、7世紀当時の基肄城を脳内シミュレーションしていました。

ところが、この写真をよく見直して、たまなぎは真っ青に。下から2段目、中央の写真をご覧下さい。

 

⑥「北帝門」

帝門(北御門)は城の北部にあり、大宰府政庁方面からの正面玄関的な門と推測されます。現在は、土塁を幅4mほど切りとおした空間があり、石積が残っています。門は最も奥の中央部に築かれています。また、門の内側にも土塁の切れ目があって、二重に門が置かれていた可能性もあります。

 

大宰府政庁方面からの正面玄関的な門と推測されます。大宰府政庁方面からの正面玄関的な門と推測されます。大宰府政庁方面からの正面玄関的な門と推測されます………えええええ!

 

実はこの北帝門(きたみかどもん)、地図で見れば分かるとおり、「史跡めぐりコース」の「コース外」なんです。(黄色い点線が史跡めぐりコース、北帝門は画面中央最上部の赤いしるしのついたところ)

 

一つ、史跡めぐりコース外の史跡への標識を見たものの、コース外だったのでスルーしてしまったところだったのです!

 

けれど、これが「大宰府政庁からの正面玄関」だったとは!

 

つまり、当時の人びとが大宰府政庁から基山を目指したら、最初にたどりつくのはここのはずなのです。

これは再々挑戦せねばと誓った初夏のある一日のことでした。

 

2.北帝門へのルートを確認。

今度こそはと入念に地図を見直します。

地図をよく見ると、北帝門は、水門側から登るより、最初に行った基山山頂からの方が近いです。

 

このために登山用地図アプリ「YAMAP」をダウンロードし、何度もシミュレーション。

 

北帝門までは、「タマタマ石」のある基山山頂から尾根伝いルートで行けば、30分くらいで着きそうです。しかも、尾根伝いルートは起伏も少なく、木もほとんど生えていなかったので、歩きやすいだろうと楽観していました。分岐も少ない。

ところが、そう甘くはなかったのです。

 

3いざ、北帝門へ!

今回は基山山頂付近まで車で行き、山頂から尾根伝いに北を目指します。

前回来た、このあたりですね。

 

ところがところが!

史跡コースを外れ、北帝への標識にしたがって歩くにつれ、だんだん足元が怪しくなってきます。このあたりは来る人が少ないのか、草が伸び放題。しかも、前日に雨が降ったので、足が濡れてきます。

 

幸い、途中で「北帝門」の標識は、右に曲がるコースを示しています。こちらに入ると、やや歩きやすい道になりました。けれど、史跡めぐりコースと違って、人はほとんどいません。

しばらく歩くと、史跡めぐりコースから分岐し、北帝門を目指すコースと合流します。

 

史跡めぐりコースから分かれた道の方が歩きやすそうでした。遠回りでも、こちらから来た方が良かったかも。

 

この合流点に、標識があります。

「北帝へは右に曲がり上へ登る」よう指示されています。「よし、この先が北帝門だ!」と勇んで登り始めました。

 

3.北帝? 北帝門?

ところがところが、この、「上へ登る」道はとんでもない難所でした!

長いこと人が登っていないのか、木の枝をくぐらないと通り抜けられない道に、しかもその枝に蜘蛛の巣がかかってたりする!

しかも、今までの道とはくらべものにならない急傾斜。道もせまく、道というより、踏み跡といった感じです。

これはちょっと危険すぎる。残念ですが、もはやこれまで……。

潔く自害して果て……るわけではありませんが、この先に進むのはあきらめました。

 

そこでたまなぎはふと思い出しました。

登山目的で基山に登った方の体験記を。

北の峰「北峰」に、「北峰(北帝)」という看板が置かれていたのを。

つまり、「北帝」と単独で書いてあった場合は、それは史跡の「北帝門」ではなく、北の峰「北峰」を指すのではないか。では、さっきあきらめた道の先にあるのは北帝門ではなく、北の峰。

 

では、やはり北帝門はこの近くにあるはずだ!

と、「上へ登る」標識があった道に戻り、この道に沿って、来た方角と反対側へ進みます。

 

すると、すぐにこんなものにぶちあたりました! 字は消えかかっていますが、かろうじて「北帝城址」と読み取れます。では、間違いなく、北帝門はこの近くのはず!

 

さらに進むと……!

 

これはまぎれもなく古い石垣の跡。ここからは緩やかな下りになっており、「→天拝山」の標識があります。

天拝山との縦走コースもあるんですね。

少し下って、この石垣のあたりを見上げるとこんな感じ。足元が石で舗装されていたらしき跡が見えます。土塁を切りとおしているのも分かる。ここに間違いないでしょう。

 

ここはネットがつながらず、答え合わせが出来ませんでしたが、帰って調べたら、間違いなく北帝門の跡でした。ミッション完了。

九州国立博物館のHPによると、ここは東北門よりもさらに立派な門だったと推測されるものの、未調査だそうです。特に復元などしていないのに、これだけの石垣がそのまま残っているって凄いですよね。1300年前のものですよ。

 

ここは大変分かりにくい場所なので、行かれる方はしっかり下調べをしてから行ってください。

できれば、遠回りでも史跡めぐりコースから分岐する道を通った方が分かりやすいです。丸尾礎石群よりもややふもとよりの大杉谷のあたりから道が分岐しており、「北帝門へ」の標識もあります。

それから、「北帝=北峰」であり、「北帝門」ではありません!

先ほどの石碑が目印です。

 

最後までお読みいただき、ありがとうございました!

 

 

  • B!