皆さん今日は、珠下(たまもと)なぎです。
今日も来て下さって、ありがとうございます!
前回は、福岡に残された神功皇后の祟りの伝説をご紹介しました。
前回の記事はこちら↓
皆さん今日は、珠下(たまもと)なぎです。 今日も来て下さって、ありがとうございます! 長く続いた八女津媛シリーズは終わり、今回はちょっと神功皇后シリーズに戻ります。 神功皇后に関する史実 ...
ここにもあった! 神功皇后の祟り①鎧坂
こちらでご紹介した「鎧坂」もなかなか怖かったですが、それを上回る伝説がありました。
それは「兜塚」。神功皇后がここで兜をつけたとも、凱旋後につけていた兜をここに埋めたとも言われていた場所です。
1.兜塚
鎧坂を登り切り、道路を渡って、さらに直進すると、住宅街の中にこんもりと茂った森があります。
先ほどの鎧坂もですが、近くに駐車場はありませんので、電車で行くか、香椎駅周辺のコインパークに車を停めてから行きましょう。
ここの住所は福岡市東区香椎駅前1丁目24。住所をしっかり特定してから行かないと多分迷います。ナビを装備して行きましょう。
小さな石段があって、猿田彦の碑があります。さらに奥に進むと……。
確かに兜の形に似ていますが、人間がかぶるにしては大きすぎる石。
ここで神功皇后が兜をつけたとも、この地に埋めたとも伝えられているそうですが、この石=神功皇后がつけた兜なのでしょうか?
左の画像の下に映っている500mlのペットボトルと比べると、その大きさが分かると思います。しかも二つ石があるのはなぜ? しかも左の方は人工物っぽい。
後ろから見たところ。
2.世にも恐ろしい祟りと、二つの石の理由
赤い柵の外に、由来が書いてありました。
「享保(1716ー1735)の頃、この塚から発掘された兜の形に似た松化石を博多の医師・荻野玄庵が運び去り庭石としたが、玄庵の死後、子・玄伯が父の墓石としたところ、祟りにより一家ことごとく急症にかかり死亡せり。よって近隣の者等神の祟りを恐れて、文化元年(1804)夏の頃再び香椎に運び来たり。不穢(けがれ)を除かん為に海浜(現在の香椎宮頓宮下辺り昔のお汐井取場)に置いてあったものを二百年余の後昭和初年に至りこの塚に返したものであり、今一つの石は寛保年中(1741ー3)上の府(新宮町)源四郎というもの、玄庵が持ち去ったのを惜しみ花崗岩に刻んで塚上に納めたものである」(香椎宮旧記)
まとめると、
①もともとこの場所には神功皇后が兜を埋めたという伝説があった。
②そこから発掘された石を博多の医師の荻野玄庵が庭石にし、死後は玄庵の墓石にされたが、その後祟りが起こって、一家が急な病で死に絶えた。
③近隣の人たちが祟りを恐れて、石を海浜に遷して浄化させようとした。
④昭和4年に石は元の場所に戻された。
⑤玄庵が石を持ち去ったのを惜しんで、今の新宮町に住んでいた源四郎という人が、花崗岩に兜の形を刻んで納めた。
大きい方の石が、もともとこの場所に埋められていた石で祟りを起こした石(②~④)。
①から、近隣の人びとはこの石を神功皇后の兜と認識していた、ということですね。
そして、小さい方の石は、玄庵が兜を持ち去ってしまったので、代わりに源四郎という人が兜の形に花崗岩を彫って納めた、ということらしいです(⑤)。
これで、二つの石の謎は解けました。
ここでも分かるのは、「神功皇后の兜を庭石~墓石として利用した一家が不幸な最期を遂げた=神功皇后の祟りだ」と、当時の人が認識していた、ということです。
やはり神功皇后は祟る、と昔の人びとが認識していたというのは間違いないようです。
神功皇后が怨霊神か? について考察した記事はこちら↓
皆さん今日は、珠下(たまもと)なぎです。 今日も来て下さって、ありがとうございます! 今回はいよいよ、「神功皇后は結局怨霊神だったのか?」その最大の謎に迫ることに致しましょう。 前回、前 ...
福岡の勅祭社・香椎宮⑥神功皇后は怨霊神なのか?
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