皆さん今日は、珠下(たまもと)なぎです。
今日も来て下さって、ありがとうございます!
今回はいよいよ、「神功皇后は結局怨霊神だったのか?」その最大の謎に迫ることに致しましょう。
前回、前々回のブログをお読みでない方は、まずこちらをご覧下さい。
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福岡の勅祭社・香椎宮④応神天皇誕生の謎
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福岡の勅祭社・香椎宮⑤応神天皇の父親の謎
1.仲哀天皇崩御後の神功皇后の軌跡
仲哀天皇が崩御した後、神功皇后はどうなったのでしょうか。
超スピードで彼女の人生を振り返ることに致しましょう。
仲哀天皇が香椎の宮で崩御した後、皇后は神託に従って新羅遠征を決意します。
そして、後顧の憂いを絶つため、まつろわぬ民であった夜須(福岡県朝倉市付近)の羽白熊鷲(はじろくまわし)や、山門(福岡県みやま市付近)の田油津媛(たぶらづひめ)などを次々に血祭りに上げ、新羅へと兵を出します。
また、立ち寄った壱岐では、出兵に臆して逃亡を図った王を怒りに任せて射殺したという話が『壱岐国続風土記』に残されており、地元の伝承では、この王は仲哀天皇の異母弟の十城別王(とおきわけのきみ)とされています。仲哀天皇のもう一人の実弟・稚武王(わかたけおう)も出征中に亡くなっており、地元の歴史家・河村哲夫氏は「神功皇后が反戦派を粛正したことを示している」と述べています。
三韓征伐を終えた後、神功皇后は筑紫に凱旋します。
神功皇后が御座船の帆柱を打ち捨て、それが石になったという伝説があるのがここ、福岡市東区名島の帆柱石です。(本当は3700万年前の樫の化石)
三韓征伐の前に神に供物を備え、凱旋の際に祝宴をした「俎板瀬(まないたせ)」も近くにあります。
神功皇后はその後出産を終え、都への帰途につきます。ところが、都には仲哀天皇が先妻との間にもうけた香坂王・忍熊王がおり、神功皇后が産んだ皇子の命を狙います。
神功皇后は彼らと戦って勝ち、皇子を皇太子に立てて政治の実権を握ります。そして応神天皇誕生の約70年後に、百歳で都で没したことになっています。
2.神功皇后には怨霊失格?
こうやって正史をふり返ってみると、はっきり言って神功皇后は怨霊としては失格です!
夫の死後は政治の実権を握り、まつろわぬ民や反対勢力、不満分子を次々と粛正。そして自分の生んだ皇子を次の天皇にすることにも成功。殺されたわけでもなく、大変な長寿を全うしています。
神功皇后に滅ぼされた羽白熊鷲や田油津媛、香坂王、忍熊王……その他たくさんの人びとの方が、よほど怨霊になる資格があります。
また、神功皇后よりも、新羅出兵に難色を示し、志半ばで殺され(?)、自分の代まで続いてきた王朝を断絶させられた(?)仲哀天皇の方が、まだ怨霊神としては及第点に近いですね。
ではやはり、香椎宮の構造が怨霊神を閉じ込める構造になっているのは、ただの偶然なのでしょうか。
香椎宮の池は神功皇后ではなく市杵島姫命を閉じ込めるためのもので、神功皇后には関係がない。参道が曲がっているのは、単に神功皇后が植えたご神木を移動させられなかったからで、神功皇后の御魂を閉じ込めるためのものではない。
そんな結論に至らざるを得ない……と思った矢先のことでした。衝撃の記録が目に入ったのは。
3.「神功皇后は頻繁に祟っていた」ー正史に残された衝撃の記録
今回、神功皇后の謎を解くために、私はこの本を参照しました。
河村哲夫著『西日本古代史紀行……神功皇后風土記』。
この本の終盤、「神功皇后の陵墓」の項に、こんな文章があったのです。
『続日本紀』の承和10年(843)4月21日の条に、「参議朝臣助(たすく)、掃部頭坂上大宿禰正野(かにもりのかみさかのうえのおおすくねまさの)らを遣わし、楯列の南北の山陵に謝罪申し上げた。さる3月18日に奇異なことが起こった。図録を調べてみると、楯列に二つの山陵がある。北が神功皇后陵で、南が成務天皇陵である。世の人は、あい伝えて南側の陵を神功皇后陵としていた。これはひとえに、口伝えによるものであった。今まで神功皇后の祟りがあるたびに、実は空しく南側の成務天皇陵に謝していたのである。昨年の神功皇后の祟りを祀るため、弓や剣などをつくって成務天皇陵に納めていた。今日改めて神功皇后陵に奉った」とある。(赤字筆者)
この文章は、神功皇后陵の場所が長く口伝えによって成務天皇陵と取り違えられていたという事実を述べたものなのですが、注目すべきは、「神功皇后の祟りがあるたびに……」というくだり。
古代の人びとが、「神功皇后は頻繁に祟りを起こす怨霊神である」という認識を持っていた、ということを、この記述は明確に示しています。
4.神功皇后は、なぜ怨霊神となったのか?
これについては、想像の域を出ません。
晩年の神功皇后についての記録は少ないですが、怨霊となるような不幸な出来事に遭った記録はありません。
だとしたら、正史に残せないような、不幸な出来事が晩年にあり、神功皇后は実は悲嘆のうちに亡くなっていた、という可能性が一つ。
もう一つは、仲哀天皇の死後から、神功皇后は武内宿禰ら海神を奉じる人々の傀儡であり、彼らの血を引く王朝=応神天皇による新王朝を樹立するために祀り上げられた存在であったという可能性。
仲哀天皇の死も、その後武内宿禰との間に子を成したことも、神功皇后の本意ではなかったとしたら。
神功皇后が、夫を殺され、夫の仇の一族の子を産み、彼らの王朝乗っ取りに協力させられた恨みを抱えながら長い人生に耐え、死んでいったとしたら。
後世の記録では、その後の王朝の正当性を担保するため、三韓征伐や反乱分子の粛清などの勇猛果敢な面だけが、強調されて残されてしまった……だとしたら、神功皇后が怨霊になるのも不自然ではないのかもしれません。
そして、応神天皇から始まった新王朝の末裔が、長らく仲哀天皇の御魂を香椎宮の古宮にとどめ置き、神功皇后と引き離したままだったわけも分かります。仲哀天皇は、滅ぼされた旧王朝の最後の王であり、新しい王朝とは血縁関係にないからです。
さらに、大正時代になってようやく夫婦神として仲哀天皇・神功皇后を祭神として祀った香椎宮が、ことさら「夫婦の宮」を強調するわけも、神功皇后が心のうちで仲哀天皇を慕いつつ、本意ではない新王朝の樹立に協力させられたのだとすれば合点がいきます。
これらは、あくまでたまなぎの妄想です。
『記紀』の記録では、異民族制圧にも新羅遠征にも神功皇后はかなり「ノリノリ」だったふうに描かれているので、的外れな想像かもしれません。
しかし、「神功皇后が怨霊神か?」という問いに関しては、正史に「頻繁に祟る」と書かれていることからも、香椎宮の構造からも、「やはり怨霊神だった」という結論を出さざるを得ないのです。
皆さんはどうお感じになりましたか?
最後までお読みいただき、ありがとうございました!
(参考文献;河村哲夫『西日本古代史紀行……神功皇后風土記』(平成13年,西日本新聞社)