皆さん今日は、珠下なぎです。
今日も来て下さって、ありがとうございます!
先週の記事にはかなり重い内容にもかかわらず、沢山のアクセスと反響を頂きまして本当にありがとうございます。
沢山の方に関心を持っていただけて嬉しく思います。
日本版産業革命ともいえる、華やかな工業技術の発展の中、労働者の不足を補うため、囚人や貧農、戦時中は外国人など、弱い立場の人々が労働に使役され、彼らの人権が軽んじられがちだったことは、最初のブログで述べました。
特に、三井三池炭鉱には、九州だからこそ、特殊な状況下で炭鉱労働に従事した人々がいたことはあまり知られていないのではないでしょうか。
それは、鹿児島県・与論島(よろんじま)からの移住者の方たちです。
与論島は奄美群島の中で最南端、最も沖縄に近い場所にある、美しいサンゴ礁の島です。
与論島
もともとは琉球王国と関係が深かった島ですが、江戸時代の初め、薩摩の琉球支配の影響で、薩摩の傘下に入ります。
1898年、与論島は未曽有の台風の被害を受けます。これに干ばつが続き、与論島は激しい飢饉に見舞われます。
飢えをしのぐため、猛毒のソテツを十分な毒抜きをしないままに食べて中毒死する人も続出、さらに疫病が流行し、島はまさに生き地獄と化します。
これに危機感を持った町長は九州本島への集団移住を決意。翌1899年、1200人もの島民が九州本島へ移住、三井三池炭鉱での労働に従事することになります。
彼らが最初に従事したのは、口之津港(くちのつこう)で石炭を船に積み込む、「ごんぞう」と言われる仕事。
安全対策が十分でなかった当時は、大変危険を伴うものでした。
海に落ちた仲間を助けることも許されず、見殺しにしたまま仕事を続けることを強制された、という悲惨な逸話も残っています。
また、独特の文化を持つ彼らは、九州本土の人たちからも差別を受けます。
賃金も与論島からの移住者は安く設定され、炭鉱の給料だけでは十分に食べていけませんでした。
けれど彼らは独自のコミュニティを築き上げ、サツマイモを育てたり豚を飼ったりして生活の糧とし、また、九州本土の人々とも粘り強く交流を続け、戦前・戦中・戦後をたくましく生き抜いていきます。
彼らが三池炭鉱の直轄管理となり、他の労働者と同様の権利を認められたのは、何と戦後、1954年になってからのことでした。
その後、前回のブログで書いたように、1963年、三井三池炭鉱炭塵爆発事故が起こります。
これをきっかけに炭鉱労働者の多くは炭鉱を離れます。
与論島の人々もその多くが東京他へ移住し、三池炭鉱の与論島コミュニティは終焉を迎えるのです。
炭鉱労働の実態については、山本作兵衛氏の炭鉱画が世界記憶遺産に認定されたことなどから一般の方々にすこしずつ知られるようになりましたが、与論島と炭鉱の関係については今まであまり知られていなかったのではないでしょうか?
最後まで読んで下さって、ありがとうございました!