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たまなぎブログ by LTA出版事業部

『ウラヤマ』裏話②戦後の三井三池炭鉱と炭塵爆発事故

皆さん今日は、珠下なぎです。

今日も来て下さって、ありがとうございます!

 

本日は前回の続きです。

さて、政府の肝いりで華やかな発展を遂げた三井三池炭鉱ですが、先日も書いたように、やがて石炭産業は斜陽に向かいます。

1960年には、人件費削減のため、大量解雇の方針が打ち出され、激しい労働争議が勃発しました。

これは、会社と労働者側の間に深い亀裂を生むことになります。

 

その3年後の1963(昭和38)年。

恐ろしい事故が起こります。

三井三池三川炭鉱炭塵爆発事故。

 

事故が起こったのは、11月9日午後3時12分。

1940年に竣工した三川鉱での出来事でした。

 

事故のきっかけになったのは、トロッコの暴走でした。

坑内で石炭を運んでいたトロッコの連結が外れ、火花を出しながら坑内を暴走しました。

この時、坑内の空気中には大量の炭塵……つまり石炭の屑が舞っていました。それに引火して、大きな爆発事故を起こしたのです。

 

当時坑内には1400人ほどの炭鉱夫が働いていました。そのうちの458人が死亡、救出された940人のうち、839人もの一酸化炭素中毒患者を出したのです。

 

事故の原因を調べた当時の九州工業大学教授・荒木忍氏は、会社側が生産第一主義のため安全対策を怠ったと結論づけます。

当時の福岡県警と福岡検察庁はこの結果を元に三池炭鉱を幹部を起訴しようとしますが、突然起訴に積極的だった福岡地検の検事が多数、異動を命じられます。

新たな検事グループは会社側の責任を認めず、会社側は不起訴処分となったのです。

 

炭鉱の事故は戦前・戦時中は多発していましたが、科学技術の発展と共に、事故そのものは減少に向かっていました。

ところが、事故が再び増え始めるのは、高度経済成長期に入ってから。

他社との競争のため、より安価で質の高い石炭を売らなければならないという意識が強くなった結果、安全対策は軽視されるようになります。

 

炭塵爆発の原因になる炭塵も、こまめな撒き水を行っていれば防げたのですが、石炭が濡れると値段が落ちる。そのため会社側が撒き水をなるべくさせないような指導を行っていたという証言もあります。

 

また、3年前から始まった労働争議のため、会社と労働者の間に亀裂が生まれ、その結果、一緒に安全対策を行おうという意識が薄れていったという見方もされています。

 

事故の後、命が助かった人々も、後遺症に悩まされます。

ひどい人になると身の回りのことさえもできず、周囲の人のことも分からず、ただ生きているだけという状態になった人もいます。

事故後50年の2013年の新聞報道では、この時点でまだ80人以上の患者が闘病生活を送っていると伝えられました。

 

私が九州のとある病院で学生~研修医をしていた頃は、三井三池炭鉱炭塵爆発事故の後遺症で闘病生活を送っている人たち専用の病室が、まだ存在していました。

患者さんたちは部屋から出ることも、スタッフと話すこともなく、ただ一日中ベッドの上で、時の重みに耐えておられました。

「炭鉱事故の犠牲者の方たちで、もう何十年も入院している」というお話をちらりと聞いただけでしたが、その時の病室の、時間が流れずに澱んだような感じ、空気の重さ。

あれは20年たった今でも忘れられるものではありません。

その時は日々の仕事や研修に忙殺され、振り返る暇もなかったのですが、10年以上たったある日、ふと、その病室の風景が胸によみがえりました。

それから「あの人たちはどんな人生を送って来たんだろう」という疑問が胸にはりついて離れず、色々調べ始めた結果、この物語が生まれたのです。

 

この物語を描いたことがあの方たちにとって良かったことだったのかどうかは分かりませんが、このような人生を歩んだ方たちがいたことを、皆さんが物語を通して知って頂けたら。あの方たちの痛みに思いを寄せて頂けたら。

作者としてこれ以上の喜びはありません。

 

最後まで読んで下さって、ありがとうございました!

 

 

 

 

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