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たまなぎブログ by LTA出版事業部

福岡市埋蔵文化財センター考古学講座「倭軍は百済・加耶連合軍とともに高句麗・新羅連合軍といかに戦ったか」行ってきた!②

はじめに

皆さん今日は、たまなぎこと珠下(たまもと)なぎです。

今日も来て下さって、ありがとうございます!

さて、今日は前回の続き。

福岡市埋蔵文化財センター考古学講座「倭軍は百済・加耶連合軍とともに高句麗・新羅連合軍といかに戦ったか」レポート2回目です。頂いた資料や講演内容を元にたまなぎがまとめたものです。

 

高句麗南侵と初期の戦い―水軍の活躍

前回レポートしたように、初期の倭人は、紀元前後から朝鮮半島南部から北部九州、そして近畿に至る交易ネットワークを築いて交易に従事するとともに、しばしば朝鮮半島で海賊行為を繰り返していました。こうした記録は『新羅本紀』にも残っており、新羅と倭に敵対関係があったことが分かります。

一方、倭は、加耶諸国や百済とは、友好関係を保っていました。

4世紀になると、高句麗が朝鮮半島を南下してきます。

危機感を持った百済は、倭国に七支刀や鉄鋌などを送るなど積極的な外交を行ったようです。

そして、369年と371年、高句麗は相次いで百済に侵攻しますが、371年、浿河河口の戦いで、百済・倭の連合軍がついに高句麗軍を撃退。逃げる高句麗軍を追撃し平壌まで攻撃したとされます。

この時、倭国の軍も大いに活躍するわけですが、倭軍の大きな強みである水軍と弓軍が大きな役割を果たしたことが考えられる、とのことでした。

前回のブログで書いたように、倭国の主な武器は弓。

しかし、弓は遠方からの攻撃には強くても、接近戦となれば防御力に劣る。

一方、歩兵は防御力に強く、接近戦に強い。そこで、百済の歩兵と倭国の弓兵が相補的な役割を果たしたのではないか、ということです。

たまなぎは軍事的知識がないので全く知らなかったのですが、古代エジプトでは盾と剣で武装した歩兵を主力軍としていましたが、後に弓を得意とするヌビア人傭兵を統合運用し、それぞれの弱点を補う戦法を取ったそうです。

歩兵同士がぶつかる前に遠方から弓兵が相手にダメージを与え、ぶつかった時に味方を有利にする。

一方、弓兵が相手方の歩兵に襲われたら、歩兵が助けに行く。そんな協力関係が成り立っていたそうです。

なかなか興味深いお話でした。

また、倭の水軍は、当時はガレー船のように人力で漕いで動かすもの。小回りが利き、百済の歩兵の輸送にも大いに活躍したのではないか。とのことでした。

ところで、この時点で講演時間はおおよそ半分以上過ぎていたのですが、白村江、まだ……?

 

百済の軍事認識と漢城陥落

やがて、475年、百済にとって天敵の高句麗がまたまた南下を試みます。

今回の高句麗王は狡猾で、百済に間諜を送り込み、内紛を生じさせ、それに乗じて王都を包囲。王は処刑され、百済はいったん滅亡します。

しかし、百済の軍事意識についての岡安先生の評価は一貫して辛口。

「百済の築城の基本思想は、基本的に甘いと言うしかない。天敵の高句麗は北から攻めて来ると分かっているのだから、城外の北側に、城内を見渡せる戦術用地があるという事実一つだけとっても、築城論として論外である。百済における軍事思想の甘さの首尾一貫性、その典型的な一例を確認することができる」(添付資料より)

百済といえば、百済観音など優美な仏教美術のイメージが先行しますが、軍事には弱かったのですね。

……ところで、白村江まだ? もう講演時間終わりに近づいてきていますが……

 

白村江の戦いと海上戦略論

ここでやっと白村江の戦いに!

かなり駆け足になってしまいましたが、主なお話は白村江の戦いの戦いで倭軍・特に水軍が敗北を来した原因。

まず、唐・新羅の海軍は船、倭軍は小型の舟。

海上の戦では圧倒的に高い位置から低い位置を攻撃する方が有利です。それに加えて、倭軍は陣形も組まず、正面から無謀な戦いを挑んだ、そのために負けたということです。

たまなぎが以前、NHKの『歴史探偵』での検証番組を見た時は、「白村江の地形を知らず、干潮の際に河口が浅瀬になってぬかるみに舟がはまって身動き取れず、敵軍の餌食になった」としていましたが、色々な原因があるのでしょうね。

ちなみに一番印象に残ったのはこれ。

惨敗した白村江の戦いですが、では、どうやったら勝てたのか?

「白村江の戦いでは、倭は唐・新羅の大軍と正面からぶつからず、新羅の東海岸を荒らし回って新羅の国力を削ぎつつ、ちょこまかと逃げ回って敵軍をバラバラにし、各個撃破するというめっちゃ卑怯な手を使えばワンチャン勝てたかもしれない(超意訳)」

 

質疑応答

今回は最後に少しだけ、質疑応答の時間がありました。

質疑応答と言っても挙手式ではなく、休憩時間に質問票を提出して、多い質問を大雑把にまとめて司会者の方が演者に説明するという方式。

たまなぎも気になったので質問しました!

「白村江の戦いにおいて武器の生産はどのように行われていたのか、特に鉄製武器についてはどこで生産され、どのように輸送されていたのか教えて下さい!」

でも、他にも沢山あったであろう「武器の調達について教えてください」の一つにまとめられちゃいましたね。しょうがない。

答えは、「前線では最低限の武器、特に弓兵は背負える程度の矢を持ち、残りは兵站部隊が運んでいた。今でも正倉院には鏃を付ける前の矢の束が沢山残っている」とシンプルなお答えでした。

しかし、面白いお話も聞けました。

矢はいずれ尽きるため、古代の戦争では射られた敵の矢を拾って射返す、ということは頻繁に行われていたそうです。なるほど。

 

まとめ

今回の講演会は、白村江の戦いそのものというよりも、白村江の戦いに至るまでの朝鮮半島情勢と倭人の活躍を、軍事的な視点から駆け足で解説したもの、という印象でした。

事前に期待したものとは違いましたが、面白いお話が沢山聞けました。

また、頂いた資料がとても充実していて、講演の内容を何度でも復習できるのもとても良かった。

無料なのが申し訳ないほどでした。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

 

 

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