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たまなぎブログ by LTA出版事業部

古代史研究フォーラム「筑紫君磐井の乱の実像に迫る」行ってきた!④面白トークセッション(前半)

はじめに

皆さん今日は、珠下なぎです。

今日も来て下さって、ありがとうございます!

 

本日は古代史研究フォーラム「筑紫君磐井の乱の実像に迫る」報告最終回……のつもりでしたが最終回になりませんでした(汗)。

講演後のトークセッションで、たまなぎが印象に残った話題をピックアップしてご紹介したいと思います。

正直言って、このセッションが一番面白かった!

一般人の視点から疑問に思いがちなことが次々と解決されたり、へえっと思わせられるお話が出てきたり。長くなるので半分に分けることにしました。

 

磐井の乱の原因について

ヤマト王権は外交の一本化を狙った

結局、磐井の乱とは何だったのか?

これは、つまるところ「ヤマト王権が、外交を一本化したかった」のではないかというのが共通した見解のようです。

磐井の時代には、磐井が独自に朝鮮半島と文化的・政治的な交流を行っていた形跡があります。

磐井の時代に朝鮮半島と共通する図案の装飾古墳が作られたことや、朝鮮半島に前方後円墳が作られたことはその一例です。

ヤマト王権からすれば、「外交」というのは国の代表が行うもの。ヤマト王権よりも外国に近く、勝手に外国と外交を行う磐井は邪魔な存在だったのでしょう。

 

その後、おそらくヤマト王権の思惑どおり、北部九州と大陸との独自外交は、磐井の死後、ぷっつりと途絶えてしまいます。

 

近江毛野の讒言があった?

ここで面白かったのは、九州歴史資料館学芸員の小嶋氏のご発言。

「磐井はもともと、継体天皇との関係は悪くなかった。最初に派遣された近江毛野(おうみのけぬ)があることないこと継体天皇に言いつけたのではないか。悪い奴がいたのではないか」

と発言されて会場を沸かせていました。

確かに、おっしゃることは一理あります。書紀には、「新羅が磐井に賄賂を渡して、毛野の進軍を妨げた」とありますが、賄賂云々は、その時筑紫へ派遣されていた毛野の口から語られた可能性が高い。

後でも述べますが、継体天皇と磐井の墳墓の共通点など、二人は親密であった証拠はいくつもあります。それが磐井の乱で完全に対立するに至るには、利害関係に加えて、感情的な対立をあおる何かがあったのかもしれません。

 

近江毛野については、磐井が「かつて同じ釜の飯を食った仲」と言っていることから(書紀の記述)、若いころに継体天皇の朝廷に共に出仕していたのではないかと考えられています。

ひょっとしたらこの二人は、個人的に仲が良くなかったのかもしれませんね。このあたりは想像の域を出ませんが。

 

磐井の最期は? 死んだ? 逃げた?

磐井の最期について、『記紀』と『筑後国風土記逸文』で記述が異なることも話題に上がりました。

『記紀』では殺されたことになっていますが、『筑後国風土記逸文』では、現在の大分県方面に逃れたことになっています。

九州歴史資料館の学芸員・酒井氏は「どっちの可能性もある」と述べられていましたが、小嶋氏は、「実際は殺されたが、風土記で『実は生きていた』と改変することで、九州各地の豪族を取り込もうとしたのでないか」という意見を述べられていて新鮮でした。

 

磐井と継体天皇の墓は相似形!

考古学的資料からは、磐井と継体天皇が最初は親密であったと考えられています。

継体天皇に特徴的なレガリア(威信財)を模した石製表飾が岩戸山古墳から出土していること、磐井の勢力圏でしか生産されない阿蘇ピンク石が、継体天皇の墓陵である今城塚古墳の石棺に使われていることなどです。

それに加えて、なんと、磐井の墓である岩戸山古墳と、継体天皇の墓である今城塚古墳は、ぴったり相似形だそうです。その比率は、今城塚古墳:岩戸山古墳=10:7

 

今城塚古墳とぴったり相似形の古墳はいくつかありますが、数が限られるのだそうです。

継体天皇は手白香皇女と結婚して、婿入りの形で断絶しかかっていたヤマト王権を継ぐのですが、この手白香皇女の墓陵は、今城塚古墳のちょうど半分の相似形だそうです。

一方、尾張連草香(手白香皇女の父)の墓陵は、今城塚古墳10に対して8の割合で相似形。

また、近年、石上神宮の近くにも相似形の古墳が見つかっているそうです。

石上神宮といえば物部氏。

磐井の乱に功績があり、磐井の死後に筑紫地方に進出した物部あらかいの墓ではないかという主張される学者さんもあるそうです。

 

つまり、この相似形の墓陵の被葬者たちは、継体帝と親密だった人々、特に擁立に関与した豪族ではないかという説が唱えられている、とのこと。

たまなぎは初めて知るお話で大変面白かったです。

 

まとめ

・磐井の乱を通してヤマト王権は外交の一本化をもくろみ、成功させた。

・磐井と継体天皇はもともと関係良好であり、二人の関係悪化には近江毛野の讒言があったのではと勘繰る研究者もいる。

・磐井と継体天皇の墓は相似形であり、他にも継体天皇と関係の深い人物の墓は相似形に作られている。

 

次回の記事では、磐井は果たして岩戸山古墳に葬られているのか? 磐井の乱で有明首長連合はどちらについたのか? などについてトークセッションでの内容をご紹介したいと思います。

 

最後までお読みいただき、ありがとうございました!

 

 

 

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