はじめに
皆さん今日は、珠下なぎです。
今日も来て下さって、ありがとうございます!
今日は前回の続き。
令和6年後古代史研究フォーラム「筑紫君磐井の乱の実像に迫る」のレポート続きです。
今回は第一部より、九州歴史資料館の学芸員のお二方の「報告」についてご紹介したいと思います……と思ったら、たまなぎの感想まで書き過ぎて収まらなくなりましたので、今回は小嶋篤氏の「報告」とそれからたまなぎが色々考えたことをつづりたいと思います。
筑紫の君の古墳と開発(九州歴史資料館 小嶋篤氏)
この方はかなりお話上手で、聴衆を笑わせながら、考古学的な知見に基づいて筑紫の君一族の歴史をご紹介下さいました。
5~6世紀、筑紫君と周辺豪族は巨大古墳を作ってドヤり合っていた
最初は、筑紫の君の墓域である八女古墳群とその周辺の古墳群が、いかにして発展していったかというお話でした。
古代5~6世紀、豪族たちは墓や表飾の巨大さで権勢を競いました。
ヤマト王権における巨大化の刺激を受け、水沼の君の支配領域である有明海領域で古墳や表飾の巨大化が起こり、有明海領域とヤマト王権の影響を受け、6世紀の八女地域でついに岩戸山古墳が出現。
八女地域の最古の前方後円墳・石人山古墳の時代から岩戸山古墳の時代までのおよそ百年の間では、水沼の君の支配領域での古墳の巨大化が著明で、この時代は有明首長連合の主導権が水沼の君にあったことが推測されると。ここは柳澤先生のお話と同じでした。
この時代の豪族たちは、「映える」古墳を作ってマウントを取り合っていたんですね~。
筑紫の君の三国丘陵・南北交通路の整備と粕屋への進出
この方のお話の中で一番印象に残ったのが、筑紫君が展開した南北交通路のお話でした。
筑紫の君一族の中で最古の個人名は、『筑後国風土記逸文』の中に登場する甕依姫です。
このブログでも何度も取り上げたこのお話ですね。
筑後の国と筑前の国間に荒ぶる神がいて、通るものの半分の命を奪ってしまったので、筑紫の君と火の君が甕依姫を祝として鎮め祀った。そして、この神がいた場所は鞍韉(したくら)尽しの坂と呼ばれていた。
実は、この話は三国丘陵の開発と大いに関係しているようなのです。
発掘結果によると、5世紀以前の古墳時代中期には、人口は三国丘陵の辺縁部に集中していました。この頃は、筑紫平野から福岡平野に抜けるには、三国丘陵の東側をぐるりと迂回しなければなりませんでした。
ところが、古墳時代後期になって、三国丘陵の背振山地側(西側)でも集落が見られるようになり、三国丘陵を突っ切って、筑紫平野と福岡平野を南北一直線に結ぶ交通路が整備されます。このため、筑紫平野から福岡平野側へ抜けることが容易になりました。
それを裏付けるのが、磐井の乱後、筑紫の君磐井の息子葛子が、「粕屋の屯倉を継体天皇に献上して死罪をまぬかれた」という記述です。粕屋の屯倉は福岡平野の現在の粕屋郡~古賀市付近と考えられており、福岡平野に磐井の支配領域があったことが分かります。
そして、配られた資料と図録を総合すると、この南北交通路が「筑紫の神います地」であり、「鞍韉尽くしの坂」であったと。
ここまで来て、たまなぎははた! とあることに気づいて大興奮してしまったのですが、話がごちゃごちゃになりますので、いったん小嶋氏の話を先に進めたいと思います。
磐井の乱の検証
磐井の乱は①磐井が近江毛野臣の進軍を阻害する②継体帝が磐井討伐軍を編成③筑紫の御井(現在の久留米市付近)で磐井軍と討伐軍が交戦、という段階で進みますが、最終決戦となった御井群の戦い以前の記録はありません。
先ほどの項で説明した福岡平野と筑紫平野を結ぶ南北路周辺で住居の焼失跡が見つかっており、この南北路沿線で戦いが展開されたと考えられているそうです。
磐井の乱は、筑紫の君に対してヤマト王権が徴兵を要請し、反発した筑紫の君が近江毛野の進軍を阻害、それに対して毛野は手持ちの軍で対抗しようとしたがしきれず、ヤマト王権に救援を要請し、大伴・物部氏が参戦した。
それに対して磐井の軍は、本拠地八女に加えて、同族関係であった火君や飛び地的に支配していた粕屋などの私兵を動員して対抗したと考えられています。
いわゆる有明首長連合の豪族たち――水沼の君や豊の君・火君らの動向については、トークセッションでまた面白い議論が展開されていましたので、後日ご紹介したいと思います。
たまなぎの感想『筑後国風土記逸文』筑紫の神の正体が分かる……?
ということは、ということは! ここまでお話が進んで、たまなぎは「はた!」と気づいてしまったのです。
ここからはたまなぎが自分の頭の中で勝手に整理したことです。もし的外れだったらすみません。
『筑後国風土記逸文』と発掘結果から、次のことは確実に分かっていることです。
筑紫君は三国丘陵に南北交通路を整備し、筑紫平野から福岡平野へ進出した。
三国丘丘陵の南北交通路が、筑紫神の坐す「鞍韉尽くしの坂」と考えられている。
筑紫神は筑紫君・火君によって祀り鎮められた。
ということは、こういうことではないでしょうか?
筑紫君は筑紫の神を鎮めることによって、南国交通路を整備し、福岡平野への進出を果たした。
これって、もしかして、『筑紫国風土記逸文』の信ぴょう性がぐっと増すとともに、筑紫の神の謎もある程度解けてしまうのではないでしょうか?
筑紫の神は、三国丘丘陵にいて、「交通を妨げる何か」であった。
それは、自然現象なのか、単なる地形なのか、人なのか、はたまた人外の「何か」なのか。
とってもとっても聞きたかったんですが、この講演会には質疑応答の時間がなくて、聞けなかったのが残念。まあ、この手の講演会では質疑応答がない理由は何となく察しがつきますから、仕方ないですね。
参考文献として小嶋氏の「筑紫君と「鞍韉尽しの坂」」(九州歴史資料館)が挙げられていましたので、これは近日中に探しに行かないと!
九州歴史資料館様、近日中にまたお邪魔します!
磐井の乱の展開についても面白いお話が沢山聞けて、大満足でした。小嶋篤様、ありがとうございました!
まとめ
・古墳時代前期、八女~有明海周辺の首長たちは、古墳や表飾の巨大さを競ってドヤり合っていた。
・古墳時代後期の筑紫君は、三国丘陵に南北交通路を整備して、福岡平野への進出を果たした。
・筑紫君磐井の乱は、当初は徴兵への反発であったが、討伐軍が編成され、磐井も勢力範囲の人々を動員して対抗したため長期化した。
・三国丘陵の交通路の整備は『筑紫国風土記逸文』に残る「筑紫の神を鎮めた話と関連が示唆される。