はじめに
皆さん今日は、珠下(たまもと)なぎです。
今日も来て下さって、ありがとうございます!
さて、今回は予告どおり、新潟に伝わる奴奈川姫の伝説をご紹介したいと思います。
大国主命と八千矛神、奴奈川姫と諏訪大明神の関係
八千矛神(ヤチホコノコカミ)=大国主命が高志(こし)の国の奴奈川姫に求婚したことは前回の記事でも述べたとおり、『古事記』に記されています。
また、『先代旧事本紀』には、古志(こし)の女王・奴奈川姫命と出雲王国の王族・大己貴命(オオムナチノミコト)が結ばれ、その子息が諏訪大明神=健御名方神(タケミナカタ)であることが書かれています。健御名方神は諏訪大明神の名のとおり、諏訪大社の主祭神です。
『先代旧事本紀』はその記述の矛盾から、長年偽書とされてきましたが、近年はその記述に一定の価値を見出す研究者も増えてきているようです。
健御名方神は、『古事記』にもその名が出ている有名な神の名です。
大国主命たち国津神たちが治める出雲の地に、天津神が国を譲れと迫る。
その時に大国主命は返答を息子たちに委ねます。
大国主命の息子である健御名方神は、国を譲るのを拒んで、天津神である建御雷神(タケミカヅチ)と勝負、腕を引きちぎられ諏訪に逃げます。その後、諏訪から決して出ないことを条件に命だけは助けてもらった、ということになっています。
ちなみに、八千矛神も大己貴命も、大国主命の異名です。
しかし、八千矛神という記述は、このコシの国(高志、古志、越)関連の伝承でしか出てきません。これについても次項でご紹介します。
新潟に伝わる奴奈川姫伝説
奴奈川姫伝説の概要
これらの記述や、地元に伝わる伝承から、新潟の郷土史家・三田村優氏は大国主命が越の国に遠征してきたのは、古代のパワーストーン・翡翠を求めての旅だと考え、「えちご国府ものがたり」に大国主命と奴奈川姫の物語をまとめておられます。
以前にも書きましたが、内容をざっとご紹介します。
翡翠を求めて出雲から海路で北陸地方に達した大国主命は翡翠の里の女王・奴奈川姫への求婚の旅に出かけます。
ところが、その途中に、現地の酋長・夜星武(やぼしたけ)が立ちふさがります。
この人は、海を活動の拠点としており、多くの屈強な部下を持ち、鬼、粛慎人(ツングース系の外国人)と恐れられていました。
(かつて外国人を鬼と呼んだのは、このブログでも何度も取り上げたとおりです)。
そこで大国主命の妻の一人、因幡比良女(いなばのひらめ)という女性が、「私が夜星武のところに嫁に行くので、円満に翡翠の里を統合して下さい」と申し出ます。大国主命はその申し出を受け、夜星武も喜びの舞を舞って大国主命に従います。
この時、鬼が喜んで舞った海岸ということで、その場所を鬼舞(きぶ)と呼ぶようになりました。
ところが、奴奈川姫への求婚に際し、ライバルが現れます。
それは現地の根知彦。神馬に乗っていたということですから、現地の神のような存在だったのでしょう。大国主に勝負を挑みます。
二人は山の山頂から「飛び競べ」をして、大国主が勝ち、のちに根知彦は大国主命に従った、ということです。
やっと大国主命は奴奈川姫に求婚し、結ばれます。
そこで生まれたのが健御名方神。
その後奴奈川の里は翡翠の王国としてさらに栄えます。
ところが、健御名方神が成長した後、素戔嗚命が亡くなったので出雲に帰るようにとの知らせが、大国主の長男・事代主神から大国主命のもとに届きます。
大国主命は奴奈川姫を出雲へ連れていこうとしますが、奴奈川姫は激しく抵抗します。
大国主命は大変な艶福家(笑)で、北陸を訪れた時も26人もの妃を随行し、さらにあまたの妃を出雲に残していました。
多くの妻たちの嫉妬を恐れたのはもちろんのこと、それに加え、奴奈川姫は翡翠の里を守っていきたいという思いを強く持っていたと言われています。
姫は夫の追っ手を逃れ、最後には夜星武(やぼしたけ)の助けを借りて死んだと見せかけ、故郷にとどまりましたが、「夫に逆らった身だから」と、その後は質素な生活を続けたそうです。
健御名方神は父について出雲へ戻り、そして後に高天原の侵攻を受けで建御雷神(たけみかづちのかみ)と勝負して敗れ、諏訪地方に逃れたことになっています。
これはかなりはしょった紹介です。詳しく知りたい方は、『お諏訪さまー祭りと信仰』(2004年、勉誠出版)をぜひご覧ください!
奴奈川姫伝説の語るもの
奴奈川姫の「ヌ」は、前回の記事で述べたように、「玉」を指します。
松本清張氏の推理どおり、奴奈川は、「底に翡翠のある川」のこと。
新潟県が古代において翡翠の一大産地であったことは今や考古学的に証明されています。
そして、その名からも、奴奈川姫が翡翠の力をバックにした女性首長であったことは、今では研究者の間では定説となっているようです。
一方、ここで登場する大国主命について。
大国主命は、多くの名を持つことから、複数人の総称であるのではないかという説は以前からありました。
諏訪神社の研究者の一人である神戸女子大学助教授(当時)の鈴鹿千代乃氏は、2004年に出版された『お諏訪さま』の中で次のように述べられています。
「大国主神は、大穴牟遅(おおなむぢ)神、葦原色許男(あしはらしこお)神、八千矛(やちほこ)神、宇都志国玉(うつしくにたま)神と五つの名を持つ。
そしてそれぞれの神話によってその呼び名が違うのである。
『八千矛神』という名は、越の沼名河比売(=奴奈川姫)とへの妻訪い(つまどい)神話にのみ使われている。
(中略)
大国主神は、最初から五つの名を持っていたわけではなく、小さな国々が次第に大きな国に統一されていく過程で多くの王たちの名が大国主神という一神に集約されていったと考えられる。八千矛神はおそらく越という、今の福井・石川・富山・新潟県にまたがる王国の王であったのだろう」
さらに、北陸地方の王・八千矛神は、翡翠の呪力を手に入れて巨大な王国となり、日本海を通じて出雲と交流して出雲に統合されていく。八千矛神を通じて出雲の文化圏は諏訪地方にも及んでいった、ということではないか、という説です。
つまり、北陸~諏訪には出雲に対して緩やかな隷属関係だった巨大な文化圏が存在し、そこの支配者が八千矛神であり、息子の健御名方神であった。
大和王権=高天原は、出雲を隷属させ、出雲を通じて北陸~諏訪の文化圏を掌握した。
その事実を正当化するために、「出雲の大国主神の息子である健御名方神が、諏訪に逃げ、『諏訪から一歩も出ない』ことを約束させて命を助けた」という神話を作り上げたのではないか、というお話でした。
これも確かにありそうなお話ですね。
諏訪大社の七不思議と八千矛神
ちなみに、この「八千矛神」という名には、もう一つ面白い考察があります。
諏訪大社には七不思議といわれるものがあります。
その一つに、「耳裂鹿」というものがあります。
これは、諏訪大社の祭りのひとつである「御頭祭」でいけにえとしてささげられる75頭の鹿のうち、1頭はかならず耳の裂けた鹿が見つかるというもの。
「御頭祭」についてはこちら↓
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この耳裂鹿は、守矢資料館に「耳裂鹿 神の矛にかかったという」という説明書きとともに展示されているそうです。
矛を携えた神、ということは八千矛神=大国主命ということになりますね。
八千矛神が諏訪大社の伝統的な祭りにおいて、主体的な役割を果たしていたことが分かりますね。
フィクションですが、これについては作家の高田崇史氏が、小説『QED 諏訪の神霊』の中で面白い考察をされていますので、興味のある方はぜひご覧下さい!
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さいごに
古代に栄えた翡翠の王国と奴奈川姫伝説、いかがでしたでしょうか?
ちなみに、大国主命の妻の一人には、宗像三女神の一人、田心姫(タギリヒメ)がいます。
糸魚川産の翡翠は、紀元前の古い時代から、北九州地方でも数多く見つかっています。
そして、6世紀に、筑紫の君磐井を滅ぼした継体天皇の母の出生地であり育った地は「越」前地方。磐井の乱後、八女地方に進出したのは祭祀を司っていた物部氏。
たまなぎの作品とも縁が深いのです。興味を持って下さった方は、ぜひ『神眠る地をオニはゆく』をお手に取ってみてくださいね。
最後までお読みいただき、ありがとうございました!