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たまなぎブログ by LTA出版事業部

社会派ドラマとしてのチェリまほ②「7話」~ドラマ版にこめられた社会問題提起

はじめに

皆さん今日は、珠下なぎです。今日も来て下さって、ありがとうございます!

さて、前回はチェリまほ3話についての感想記事に沢山のアクセスありがとうございました!(前回の記事はこちら↓)

社会派ドラマとしてのチェリまほ①「3話」~原作との比較

はじめに 皆さん今日は、珠下(たまもと)なぎです。 今日も来て下さって、ありがとうございます!   さて、先日のチェリまほ11話についての分析記事には、大変沢山のアクセスをありがとうございま ...

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前回の記事では、ドラマと原作の違いに触れ、今回は、社会派ドラマとしての側面について解説しました。

今回は同じテーマで、7話についてお話したいと思います。

皆さん7話は「神回!」とおっしゃっていますが、私も同意見です。

しかもこの回も3話と同様、原作にわずかな違いを加えることで、社会派ドラマとしての奥行きを与えています。

 

神回、7話

7話で印象的なのは、なんといっても黒沢が安達を好きになる場面でしょう。これは、原作の漫画に比べ、ドラマではより繊細で丁寧に描かれ、組織の理不尽さや残酷さを浮き彫りにする形になっていました。

これについては後述しますが、まずは7話をストーリー順に追ってみてみましょう。

 

6話ラストで、「おまえのこと好きなんだ」と、抑えきれなくなった思いを吐き出すように告白した黒沢。

ところが、安達の頬に触れようと手を伸ばしたとたん、安達は目を逸らして視線を落としてしまいます。

「拒まれた」と思った黒沢は、「やっぱり忘れて」「今度会ったら、全部元どおりだから」と無理に笑顔を作ってその場を去ります。

 

ここで、一人になった時の町田さんの演技がまた良かった。

まるで陸でおぼれる魚のように、息をすることさえ苦しいといった表情と乱れた呼吸。

黒沢にとって安達の存在が、生きるために不可欠といっていいほど重要であることがよくわかります。

この時の黒沢は、「安達なしでは生きていけない」と全身で叫んでいるように見えました。

 

ルッキズムの呪縛

そこから黒沢の回想が始まります。

「見た目で得をしていると分かってた」「でも外見しか見られていないようで、嫌で、でもそれを言うと嫌味になると分かっていて、気にしないふりをしていた」と黒沢。

「黒沢くんが、好きです」と、次々と現れる女の子たち。でも、「どうして?」と聞くと、黙ってしまいます。

それを見つめる黒沢の笑顔が、ひどく悲しく切なく見えます。黒沢の、外見しか見られていないことへの孤独感が、浮き彫りになっていきます。

 

私は外見で得をしたことなど多分ほとんどない(笑)ので、昔は「イケメンの悩みなんか知るか!」というタイプだったのですが、美人・イケメンであれ、その逆であれ、本質的な悩みは同じなのかもしれないと、この場面を見て思いました。

それは、「外見でイメージを決めつけられ、中身を見てもらえない」もしくは、「イメージと外れたことをすると失望されたり陰口を叩かれたりする」ということ。

こういうのをルッキズム(容貌や外見による差別)に含むと考えるかは人によって意見が別れるかもしれませんが、会社という組織の中や、恋愛の場においては、それが顕著になり、人間の生きづらさの一つになっているのではないでしょうか?

 

漫画では、酔いつぶれて安達に介抱される黒沢が、「顔だけが取り柄のくせにと言われるのが嫌で、仕事も対人も完璧にこなそうとしてきたけれど、結局何も変わらないんじゃないか」と独白するだけなのですが、ドラマ版では過去のエピソードを挿入することにより、黒沢の孤独と生きづらさをより深く掘り下げる形になっています。

 

黒沢の恋、原作とドラマの違い

そして、黒沢が安達を好きになる場面。

原作との大きな違いが二つあり、そこが社会派ドラマとしての性質をより強くしていると感じたため、この二つについて語りたいと思います。

片思い期間の違いの意味するものは?

まず、漫画ではこのエピソードを、安達が魔法使いになる前の年としていますが、ドラマでは入社してまもなくのこととしています。

これはどうしてでしょう?

最初は黒沢の片思い期間を7年間と長くすることで、黒沢の思いに重みを与えるためかと思っていましたが、それだけではないのではと思い始めました。

このエピソードは、黒沢が女性社長から受けたセクハラと、それを拒んだために叩かれた悪口を中心に描かれているのですが、黒沢と安達を新卒に設定することで、セクハラの悪質さを際立たせるものとなっています。

新卒の彼らは立場が弱く、ハラスメントに抵抗することは難しいことを、周囲は分かっていてやっていることになるからです。

男性上司が、若いイケメン社員を連れていくことで、女性社長の歓心を買おうとする描写もみられます。

つまり、男性上司も間接的にセクハラに加担していることが、ここで浮き彫りになるわけです。

 

これを男女逆で考えたらどうでしょうか?

女好きの男性社長の歓心を買うために、女性上司が新卒の美人の女性社員を接待に駆り出し、社長の相手をさせたら?

そして社長が女性社員にセクハラをし、それを拒んだ女性社員に、「顔だけが取り柄のくせに」と陰口をたたいたら?

まあ、とんでもない会社だと思われることでしょう。昭和の時代には、そういうことも普通に行われていたかもしれませんが。

けれど、今の時代なら、大問題になるでしょう。

ところが、男性が被害者だと、女性が被害者の場合のように、問題になりにくい面もあるのではないでしょうか?

そういった問題提起を、この場面からは強く感じました。そのために、あえて二人を新卒に設定したのではないかと、私はそんなふうに考えました。

 

女性社長への謝罪シーンをなくしたのはなぜ?

そしてもう一つの違いは、漫画では最終的に女性社長に黒沢が謝罪しているのですが、ドラマ版ではその場面をカットしていることです。黒沢が謝罪すれば黒沢は自分の非を認めたことになり、せっかく問題提起したセクハラの悪質さがブレてしまうからでしょう。

ここにも脚本家の方のこだわりを感じました。

 

蛇足~ここは原作のままがよかった!

前回から、ドラマの良かった点をほめてばかりいるので、たまなぎはドラマ寄りかと誤解されるかもしれませんが、決してそんなことはありません(笑)。チェリまほなら何でもおいしく頂く雑食なだけです(笑)。原作全て履修した今は、どちらかというと原作寄りかもしれません。

11話についてもえらそーに解説していましたが、たまなぎは原作どおり、二人が別れない方がよかったと思っている派です。

ついでに、このシーンでも原作の方が良かったと思うところがあります。それは……

安達が黒沢を介抱する場面では、原作どおり膝枕してほしかった! 安達くんがただ黒沢さんに庇われているだけじゃなくて、黒沢さんのことをしっかり見てて、いざとなったら癒せる包容力の持ち主だというところをもっとアピールしてほしかった!

それに、あの赤楚衛二さんと町田啓太さんの二人で見たかった!(ただの願望)

やっぱり不自然だったんですかね。ただの同僚に膝枕は(笑)。

この後の安達の告白シーンも大好きな場面の一つです。泣きそうになりながら、勇気をふりしぼって必死で告白する安達くん役の赤楚さんが可愛くて×2、何度おかわりしたことか(笑)。

はい、すみません、そろそろひっこみます。

 

最後までお読み頂き、ありがとうございました!

 

 

 

 

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