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たまなぎブログ by LTA出版事業部

岡田英弘著『日本史の誕生』感想②日本「建国」はいつか?

はじめに

皆さん今日は、珠下(たまもと)なぎです。

今日も来て下さって、ありがとうございます!

 

前回の記事では、「邪馬台国」の時代の東アジア史を踏まえて、『魏志倭人伝』の道順に従うとどうして邪馬台国にたどりつけないのか、また、実際の邪馬台国はどこにあったのかなどの岡田英弘の説をご紹介しました。

今回は前回と同じく岡田英弘著『日本史の誕生』から。東アジア史全体の視点から読み解いた、日本の古代王権の姿をご紹介しようと思います。

 

『記紀』の天皇はどこからが実在?

皆さんは、『記紀』に記された天皇はどこからが確実に実在し、現在の天皇家につながる天皇だと思われますか?

稲荷山古墳鉄剣に名の記されたワカタケル王=第21代雄略天皇?

それとも、神話によく知られたヤマトタケルの父である第12代景行天皇?

いや、それとも、「初代神武天皇から、全ての天皇は実在した! 日本は紀元前660年に神武天皇によって建国された!」と信じておられますか?(最近はこういう人も増えてそう)

私は、正直に言いまして、「第26代継体天皇くらいからかな~」と思っていました。

継体天皇は「応神天皇の5世孫」とされ、そもそも出自があやふやなうえ、入り婿の形で帝位を継いでいます。ですから、ここで王朝の交代が起こったのではないか。また、古代には珍しく古墳の位置まで判明している筑紫の君磐井を滅ぼすなど、業績がはっきりしているからです。

ところがところが!

岡田氏は、「歴史上の人物として確実なのは、天智・天武天皇の父である第34代舒明天皇から」と言い切っておられるのです。岡田氏の説によれば、現在に続く日本という「国」が建国されたのは、660年の百済滅亡に始まり、663年の白村江の戦いがきっかけだというのです。

 

建国前夜の倭国情勢

それでは、白村江前夜の倭国の情勢をざっとおさらいしましょう。

前回の記事でご説明したように、『魏志倭人伝』に書かれた倭国の姿は、総合商社である中国の、友好商社である商業都市の集まりでした。その中から代表に選ばれたのが邪馬台国ですが、晋が滅び、五胡十六国時代に入ると、日本への中国勢力の影響もなくなり、邪馬台国も消滅します。その後、日本にも力のある支配者層が現れ、それぞれ中国勢力と貿易などの交流を通して成長しますが、日本全体の統一とは程遠いものだったのです。(これらについては後程詳しく述べます)

 

百済滅亡と白村江の戦い

660年百済が滅亡すると、天智天皇は百済の残存勢力と結び、救援軍を差し向けます。ところが、663年、白村江の戦いで唐・新羅の連合軍に大敗。岡田氏は、この出来事を、「この行動によって、倭国は世界帝国を敵に回し、海の中に完全に孤立してしまうことになった」と述べています。

そして、この非常事態を受けて、中国から完全に独立し、日本だけで統一された国家を作る必要が生じます。668年、天智天皇は大津で即位して「天皇」という王号を初めて採用します。

これが、現在につながる日本国の、最初の建国なのです。

 

日本書紀と紀元前660年の意味

新たに建国された日本。しかし、日本初めての歴史書である『日本書紀』には、紀元前660年に神武天皇が即位し、それから天武天皇まで、天皇家の血統が受け継がれていることになっています。それはなぜでしょうか。

岡田氏は、『日本史の誕生』の中で、このように書かれています。

それまで畿内の一部分だけを支配していた倭国を解体し、それ以外の、日本列島の全土に点在していた諸国を統合して、新たに「日本」という国を作り上げる。これまでの倭国大王の家柄に『天皇』という王号を採用して、天皇を新たな国家の元首にしたてあげる。そういう仕事を正当化するために、それ以前の日本列島にも常に統一国家があって日本と呼ばれており、天皇という王が納めていたのだという政治的な主張を書いたものが『日本書紀』だ。七世紀以前の日本列島の実態を後世に伝えようとして『日本書紀』を書いたのではない。これは、『日本書紀』が日本で最初に書かれた歴史の書物であるからには、当然のことである。(太字筆者)

そして、『日本書紀』が日本建国の年としている紀元前660年にも、歴史的事実ではないにしろ理由があるというのです。

こでは、後漢の鄭玄(じょうげん)という大学者の歴史理論に基づいており、文明は1320年を1サイクルとして循環するというものなのだそうです。

この論理に従うと、神武天皇の即位から1320年後は西暦661年で百済滅亡の翌年、天智・天武帝の母である斉明天皇が九州の朝倉橘広庭宮で亡くなった年。しかもこの年は、鄭玄の理論では「天命が改まる年」に当たるそうです。

つまり倭人にとって、661年は紀元前660年に始まった日本という国が大きな節目を迎えて、新たな時代が始まることが暗示されていた。それに従って神武天皇の即位年も設定された、ということです。

 

『隋書』と『日本書紀』の矛盾

しかし、『日本書紀』は天武天皇の時代に編纂が始まったものですから、舒明天皇はもちろん、その前の推古天皇・その摂政だった聖徳太子あたりまでは、正確な記憶が残っていそうなものです。

ところが、この時代さえ、『日本書紀』の記述は怪しいと、岡田氏は言われます。

これは一部の古代史マニアの間では有名な話なのですが、聖徳太子の時代の『日本書紀』の記述と、中国の歴史書である『隋書』の間に大きな不一致があるのです。

聖徳太子が隋と対等の外交関係を結ぶために苦労し、「日出づるところの天子、書を日没するところの天子に致す、恙なきや」という文を送ったというのは、有名な話。

しかし、この時の記録は『日本書紀』にはありません。しかも、この時代の倭王について、倭の使者は隋の皇帝である煬帝の前で、「姓は阿毎(あま)、字は多利思北孤(たらしひこ)、阿輩雞弥(おほきみ)と号(な)づく」と答えているのです。

この倭王について書かれたことは伝聞ではなく、隋の使者の裴清が直接その王に会っています。さらにこの倭王には王妃のほかに太子もいて、男性であることは間違いありません。

隋の使者が倭国に到着した608年という年のはっきりした記述について、『日本書紀』では、「推古女帝と摂政聖徳太子」、『隋書』では「多利思北孤という男性の王」ということになっており、明らかに食い違っているのです。つまり、推古天皇の実在さえ怪しい。

この記述から、九州に多利思北孤という王を戴く、大和朝廷とは別の王朝が存在したと主張するという学者もいますが、『日本史の誕生』を読む限りでは、それは少し違う気がします。

というのも、この本の記述によると、『隋書』の多利思北孤王の統べる倭国への道順は、都斯麻(対馬)を経て、東の一支(壱岐)国に至りそれから竹斯(筑紫)国に至り、さらに東の秦王国に至り、さらに十余国を経て倭国の海岸に着いた、と書かれているのです。

そして、「竹斯国より以東は、皆倭に附庸(大国に外交権を委託して、戦争の時は兵役を負う小国のこと)している」と。つまり、倭国は筑紫よりずっと東にあり、筑紫国より東の十余国も一応は独立国であり、倭国と呼ばれたのは近畿のごく一部の地域であったことが分かるのです。

たまなぎは個人的には、「多利思北孤」の音が、景行天皇の和名である「おおたらしひこ」と似通っているのが非常に気になります。日本書紀の時代的には全く異なるのですが。この「多利思北孤」という王の名が、ずっと昔の天皇の名として使われた可能性もあるのかもしれません。

 

倭の五王について

しかし、推古天皇以前の天皇の系譜が、全くのでたらめかというと、そういうわけでもないようです。

仁徳天皇を父とする履中天皇・反正天皇・允恭天皇と、それにつづく、允恭天皇の子である安康・雄略天皇は、『宋書』に記録のある「倭の五王」と続柄がほぼ一致していることなどから、岡田氏は実在の人物と考えているようです。

そして、『宋書』は、雄略天皇の祖父に当たる仁徳天皇についても、倭王「武」の祖父「禰」としてその業績を伝えています。岡田氏は、「禰」である仁徳天皇が、文献上確認できる最古の王権だと結論付けておられます。

 

『日本書紀』『古事記』の記述の根拠

そんなわけで、推古天皇以前の王朝については、日本書紀は虚実入り乱れる内容となっているという結論に導かれるのですが、虚の部分についても、荒唐無稽な話を並べただけではなく、ちゃんとした根拠に基づいて創作されていると岡田氏は言われます。

たとえば、応神天皇は、王朝を交代させた継体天皇の正当性を担保するために(継体天皇は応神天皇の五世孫ということになっている)創作された天皇。神武天皇は、壬申の乱の際に、天武天皇を助けるために現れた神。このことは日本書紀に記述があります。

その他、神功皇后・仲哀天皇夫婦や、ヤマトタケルについても、その創作の理由が7世紀後半以降の歴史的事実とリンクしていることが、『日本史の誕生』には論じられています。

そして『古事記』については、作者とされる太安万侶の古事記編纂の記録が『続日本紀』にないことや、書紀に見える様々の異説がカットされて統一されていることなどから、「9世紀の平安時代、『日本書紀』を元として作られた偽作」とまで述べています。長くなるので今回は割愛しますが、興味のある方はぜひ本を手にとって見て下さい。

 

おわりに

九州における神功皇后伝説などを追いかけていたたまなぎにとっては、岡田英弘著『日本史の誕生』は、非常にショッキングな書籍でした。しかし、豊富な東アジア史の知識を元に展開される論は非常に現実的で説得力があるものでした。

日本の古代史に興味のある方にはぜひ一読をお勧めします。

最後までお読み頂き、ありがとうございました!

 

 

 

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