はじめに
皆さん今日は、珠下(たまもと)なぎです。
今日も来て下さって、ありがとうございます!
しばらく間が空いてしまいました。
X(旧Twitter)でたまなぎをフォローして下さっている方はご存じかもしれませんが、しばらくインフルエンザで寝込んでおりました。予防接種は済ませていたのですが。今年のインフルエンザは感染力も強く、なかなか凶悪です。皆さまもどうぞお気を付け下さいね。
さて今日は、インフルエンザで寝込んでいる間に読んだ本の感想です。
岡田英弘『日本史の誕生』だいぶ前から読みかけていて、最後まで読めていなかった本。この機会に読了しました。
大変興味深い本でしたので、ご紹介したいと思います。
『日本史の誕生』について
この本を書いた岡田英弘氏は東大文学部卒の研究者で、中国史・モンゴル史・満州史などの東アジア史を専門とされている方です。
この『日本史の誕生』は日本に残された資料だけでなく、海外(主に中国)の資料を基に、7世紀以前の古代日本の真実に迫ろうとしたもの。
『魏志倭人伝』が書かれたいきさつからその信ぴょう性、なぜ示された道順どおりに行くと邪馬台国が日本を飛び出してしまうのかなど、徹底的に検証されています。
また、『古事記』『日本書紀』の信ぴょう性と書かれた政治的意図についても検証されており、大変興味深い論説でした。今回は前半、古代史に興味がある方なら必ず一度は通る道、「邪馬台国」についての論説を紹介します。
『魏志倭人伝』の道順だとどうして邪馬台国は日本を飛び出してしまうのか?
①古代中国は「総合商社」だった!
古代の中国は、「総合商社」のようなものだった、とこの本には書かれています。
古代の中国商人たちは、貿易を求めて南方や朝鮮半島、さらには日本に進出しました。彼らは貿易の拠点として都市を作り、次第にその周辺に貿易相手である現地の人が住むようになります。これは自然発生的な集落とは異なり、貿易を目的として作られた都市でした。
日本にもこのような都市が数多く作られ、「倭人百余国」というのは、私たちが想像する自然発生的な「国」ではなく、こういった都市のことを指すそうです。
これらは、中国の帝国が総合商社なら「友好商社」のようなものでした。
その中から力を持って貿易を独占するようになってきたのが、1世紀ごろに活躍した奴国。
現在の福岡県春日市辺りにあった国で、「漢委奴国王」の金印を与えられたことでも有名ですね。
数多くの友好商社の中から、倭人を代表する「友好代表商社」のようなものだったといいます。
そして、3世紀ごろになると、後漢の凋落に伴い、倭国も戦乱に巻き込まれます。奴国は後漢にべったりでしたが、やがて中国は三国時代に入り、魏が台頭してきます。魏は新たに「友好代表商社」として「邪馬台国」を選び、倭人たちの代表とした、ということです。
②『魏志倭人伝』が書かれた意図
『魏志倭人伝』は、そもそも、『三国志』の中の、『魏書』の中の、26伝のうちのひとつ、『鳥丸・鮮卑・東夷伝』の中のさらに『東夷』の中の6つの一つ『倭人』の章にすぎません。
そして、これは、そもそも『魏書』の一つであり、魏の皇帝のために書かれたものなのです。
238年、邪馬台国の女王の使節団が魏に到着、帝都・洛陽で皇帝支持のパレードを繰り広げます。「『魏志倭人伝』はこの出来事を記録し、魏の皇帝の栄光を称えるために書かれた」と『日本史の誕生』にははっきり書かれています。
倭人の国の位置を正確に記録するためではなかったのです。
③『魏志倭人伝』の著者・陳寿とその政治的意図
卑弥呼の時代、中国は魏・呉・蜀の三国時代。蜀がまず魏に滅ぼされます。魏の皇帝から帝位を禅譲されて新たに晋朝を開いたのが司馬炎で、晋はさらに呉を滅ぼして中国を統一します。
『魏志倭人伝』を含む『三国志』の著者・陳寿は、もともと魏に併合された蜀の国の人で、晋朝の史官でした。長く不遇でしたが、晋朝の高官である張華に見出され、『三国志』を撰することができました。
『魏志倭人伝』はこの、晋朝の時代から、魏の時代をふり返って書かれたものなのです。
『魏志倭人伝』の著者の陳寿にとって張華は恩人です。ですから、張華の主君であり、晋朝の建国者でもある司馬氏のために、『魏志倭人伝』は政治的な意図で事実を曲げている個所が多いと、この本では論じられています。
実際、『魏志倭人伝』の道順のとおりに邪馬台国を目指すと、邪馬台国は日本をはるか過ぎて、南の海上になってしまうのですから、『魏志倭人伝』の記述が正確でないことは明らかでしょう。
しかし、これは陳寿の知識不足ではなく、明らかに政治的な意図を以て捻じ曲げられたものだと、岡田氏は論じています。
これは細かく説明すると非常に複雑なので、思い切って簡単に説明すると、理由は大きく分けて次の2つです。
①魏は、皇帝の一族曹氏と、軍人の司馬氏が、絶妙な権力バランスの上に国を運営していました。曹氏は対外的に西方を担当し、司馬氏は倭などの東方を担当していました。魏の皇帝が西方の友好国であった大月氏(中央アジアから北アジアにかけて栄えたクシャーナ朝)に『親魏大月氏王』の称号を与えたため、バランスをとるために東方友好国の邪馬台国に『親魏倭王』の称号を与えました。陳寿は司馬氏の功績を曹氏と同等以上のものとみせかけるため、邪馬台国への距離を延長し、その規模も実際よりも大きなものに描きました。「邪馬台国も、大月氏国と同じくらい遠くにあって、同じくらい大きいんだぞ!」ということですね。
②邪馬台国の時代、魏は南方の呉に背後を脅かされていました。邪馬台国が魏よりも南方の海上にあるとすれば、魏と邪馬台国は呉をはさみうちにするという高度な作戦に出たことになり、司馬氏の功績を強調することになります。このため邪馬台国は実際より南方に位置を変更されたのです。
実際、『魏志倭人伝』の邪馬台国への距離は、大月氏への距離とちょうど同じに書かれています。邪馬台国は実際は日本の小国であったにも関わらず、クシャーナ朝と同じくらい遠くにあり、クシャーナ朝と同じくらい力を持った大国だったように描かれたのです。
その後司馬氏は曹氏を滅ぼし、魏の皇帝から皇位を禅譲されて晋朝を建てるわけですが、ここにいたるドラマも非常に面白いです。この本にはそこも正確に書いてありますので、興味のある方はぜひ本を手にとってみて下さいね。
④邪馬台国はどこ?
こうしてみると、『魏志倭人伝』の記述を正確にたどりながら、邪馬台国の位置を割り出そうとする努力がいかに無意味なものか分かります。
岡田氏は、『日本史の誕生』の中ではっきりこう書いています。
『魏志倭人伝』はその成立の事情からして(中略)三世紀の日本列島の事情を正確に伝えたものではない。したがって、『魏志倭人伝』の文面からだけでは、邪馬台国の位置を決定できない。(中略)要するに、卑弥呼の都がどこにあったのか、分かるはずがないのである。
そんな、身もふたもない。
しかし、岡田氏は『魏志倭人伝』がそのようなこころもとない資料であることを踏まえた上で、邪馬台国以北、狗奴国に至るまでの21国が順に並べられていることに着目しています。
この書き方は、倭人の国がある交通路にそって並んでいるとするものである。(中略)もし倭人諸国の実情を反映したものと仮定するならば、こうした長い交通路として考えられるものとしては、瀬戸内海の水路しかない。
こう仮定したうえで、男の王がおり、邪馬台国と対立していたという狗奴国を現在の紀伊半島あたりと考え、邪馬台国は瀬戸内海の沿岸の西寄りのいずれかの地域、と推測しています。
たまなぎの感想
面白かった。邪馬台国の位置については色々な本を読みましたが、いずれも『魏志倭人伝』の記述をどう解釈するかに終始していて、言い方は悪いですが『魏志倭人伝』の中から一歩も出られていないような印象がありました。
この本は『魏志倭人伝』の記述を超え、『魏志倭人伝』が書かれた時代も含めた東アジアという大きな視点から邪馬台国の姿をとらえようとしていて、非常に斬新でした。
ただ、疑問も多く残ります。。
邪馬台国が中国側から指定された「友好代表商社」であったならば、卑弥呼が得意として衆を惑わしたという「鬼道」はどういう位置づけになるのか?
中国と異なり、女性の王がわざわざ選ばれたのは、倭人独特の習慣を意味しているのではないか?
卑弥呼が死んだとされた年に北部九州で起こったとされた日食と卑弥呼の死はかかわりがないのか?
卑弥呼の時代の北部九州の遺跡、吉野ケ里遺跡には高度な天文学が使われていることが分かっているが、これは中国の知識人がいた証なのか?
邪馬台国の有力候補地とされている纏向遺跡は南アジア産の植物が発掘されるなど、国際都市であることが分かっているが、紀伊半島に狗奴国があったとすると、狗奴国は中国とは別のルートで貿易を行っていたのか?
などなど、疑問は尽きません。
邪馬台国については色々な学者が様々な視点から論争を繰り広げていますが、議論が尽きることがないのが魅力ですね。
岡田英弘著『日本史の誕生』はこちら↓
最後までお読み頂き、ありがとうございました!