はじめに
皆さん今日は、珠下なぎです。
今日も来て下さって、ありがとうございます。
さて、まだ神と人との境目があいまいだった時代、たくさんの伝説を残した鬼八。
実は、鬼八伝説の残る高千穂は、中世以降も、鬼八の時代と同様、権力との攻防に悩まされてきた土地だったのです。今回も高山文彦『鬼降る森』からの紹介です。
1.高千穂と権力の関わり
大和王朝成立後は、高千穂はその地理的要因もあって、長く中央の支配は及ばず、半分独立したような土地でした。あまり農業にも向かないやせた土地が多く、そこで人々は細々と自給自足の生活を続けていました。
ところが、豊臣秀吉の九州征討により、1591年、とうとう中央の支配下に入ります。
もともと豊かではない土地に重税を課され、以後高千穂の人々は貧しい暮らしを強いられてきました。
1839年、とうとう耐えかねた人々は、神領運動を始めます。
これは、延岡藩の圧政から逃れるため、秘かに高千穂を天皇の直轄領とするよう直訴する計画です。
この計画は、中心人物であった杉山健吾が1847年捕らえられ、1862年までの長きにわたって拘束されることで挫折してしまいます。
かつて天皇家によって滅ぼされた過去を持つ高千穂の人々が、皇室に助けを求めるというのも皮肉な話ですが、高千穂の人々の中には、高千穂こそ天皇家発祥の地であるという誇りのようなものがずっと根付いていたのです。
2.天皇家への矛盾した崇敬
高千穂が、神代の時代以来失っていた天皇家とのつながりを取りもどしたのは、大正13(1924)年のことでした。
1923(大正12)年の日豊本線延伸開業と翌1924(大正13)年の皇太子御成婚を記念して、高千穂を含む西臼杵郡と宮崎県は、皇室に吉田初三郎筆「高千穂付近之図」絹本一幅を献上したのです。それには高千穂が天皇家のルーツであることも訴えられていました。
それを台覧した秩父宮殿下は1924年に高千穂峡を訪問し、それがメディアに取り上げられて、高千穂は天皇家発祥の地として注目を浴びることになります。
高千穂では「秩父宮殿下奉迎歌」が作成され、殿下の行幸を大いに歓迎したといいます。
かつて、天皇家の祖先に土地の首領を殺され服従を強いられた高千穂の人々。しかし彼らは、一方で圧政から逃れるために天皇家に助けを求め、天皇家のルーツがここだということを誇りにしてきたのです。その矛盾を、高山文彦氏は『鬼降る森』の中でこう言い表しています。
自分たちの土地から天皇家は出たという誇りを、人びとは被害の側にありながら失うまいとした。それは矛盾した感情に違いない。杉山健吾という大いなる犠牲者を出したにもかかわらず、天皇家はついに助けてくれなかったのだから。だが、その矛盾こそ、山また山のこの地で生きていかざるをえなかった人々の、生活者としての実感だったのである。
この文章を読んで、私はふと、平成初期に一世を風靡した古代ファンタジー『宇宙皇子』の中のエピソードを思い出しました。供御人(くごにん)――帝の食事を届ける人々の話です。
飛鳥時代、人々は良民と賤民(被差別民)に分けられていました。帝の食事を届ける供御人も、賤民に分類され、良民である農民たちから馬鹿にされるのですが、その時一人がこう言うのです。
「俺は賤民でも、供御人だぞ! 帝の食卓にお食事をお届けしている」
農民たちは彼らを馬鹿にするのを止めます。彼らを農民の下の身分に位置づけたのは、ほかならぬ帝。けれどその帝を権威を利用して、彼らは自分たちの誇りを守るのです。この矛盾した感情は、今も日本人の中に受け継がれているものかもしれません。
これで「鬼八」シリーズは終わりです。
何度も引用させて頂いた高山文彦『鬼降る森』はこちら↓
ご紹介したもの以外にも、大変面白い話が沢山載っていますので、お勧めです。
最後までお読み頂き、ありがとうございました!