皆さん今日は、珠下(たまもと)なぎです。
今日も来て下さって、ありがとうございます!
さて、次から別シリーズ……と行こうと思っていたのですが、前回の「筥崎宮」シリーズでちょっと補足したいことができたので一つ記事を書きたいと思います。
前回こちらの記事で、「最初の『敵国降伏』の御宸筆に想定された、「敵国」が菅原道真を指すのではないかという説は、ちょっと不自然なのではないか」と書きました。
皆さん今日は、珠下(たまもと)なぎです。 今日も来て下さって、ありがとうございます。 さて、今回は前回の記事を踏まえて、筥崎宮のご神宝である、醍醐天皇の御宸筆・「敵国降伏」の謎に迫ること ...
見どころと謎が満載の筑前国一之宮・筥崎宮④醍醐天皇の時代と「敵国降伏」の謎
ところが、菅原道真という人の出自や逸話をよくよく検めてみると、実はそうとも言えないのではないか、と思うようになりました。
その理由を今回はお話ししましょう。
1.菅原道真の祖先・土師氏
菅原道真があまり格式の高い家の出ではなく、それにも関わらず学問が優秀で重用されたために藤原氏の嫉妬を買い、讒言を受けて左遷されたことはよく知られています。
では、あまり格式の高くなかった家とは、どういうことなのでしょう。
菅原道真の祖先は、野見宿禰と言われています。
菅原道真を祀った太宰府天満宮にも、菅原道真が野見宿禰の子孫であることを示す石碑が建っています。
この、野見宿禰はあるスポーツの祖として有名です。
そう、日本の国技でもある、「相撲」です。
野見宿禰については、Wikipediaにはこう書かれています。
垂仁天皇の命により当麻蹴速と角力(相撲)(『日本書紀』では「捔力」に作る)をとるために出雲国より召喚され、蹴速と互いに蹴り合った末にその腰を踏み折って勝ち、蹴速が持っていた大和国当麻の地(現奈良県葛城市當麻)を与えられるとともに、以後垂仁天皇に仕えた[3]。また、垂仁天皇の皇后、日葉酢媛命の葬儀の時、それまで行われていた殉死の風習に代わる埴輪の制を案出し、土師臣(はじのおみ)の姓を与えられ、そのために後裔氏族である土師氏は代々天皇の葬儀を司ることとなった[4]。(引用元;野見宿禰 - Wikipedia)
当時の歴史的背景を考えると、当時はまだ大和朝廷に逆らう人々が各地におり、当麻蹴速は、そのような人物だったと思われます。
そして、古代においては、反朝廷の民族を抑えるために、もともと反朝廷側だった人間を使い、互いに戦わせるという方法はよく取られていました。
それを考えると、野見宿禰=土師氏は、もともと反朝廷側の人間=鬼や土蜘蛛、河童と言われた人たちの仲間だったと思われます。
古代において有力な氏族は、それぞれ神話時代の神々を祖先神としていました。
藤原氏の祖先神は、「天児屋根命」とされています。土師氏を祖先とする道真が、宮廷で差別されたのも、そのような事情があったのでしょう。土師氏という名前にも「はじ=恥」の意味をこめたと言う説もあります。
2.道真と河童のつながり
古代において朝廷に逆らう人々は、鬼や土蜘蛛、河童にたとえられましたが、菅原道真の場合、河童とは特別につながりがあったことが知られています。
九州には、「ひょうすべ」という独特の河童伝説があります。このルーツについてはこのようなお話があります。
神護景雲2年(762年)、春日大社が三笠山に遷された際、内匠頭が秘法を用いて人形に命を与えて社殿建立のための建築労働力としたが、完成後に不要となった人形を川に捨てたところ、人形が河童に化けて人々に害をなした。称徳天皇の命により兵部大輔の任にあたっていた橘島田丸がそれを鎮めたので、その河童たちを「主は兵部」という意味から兵主部(ひょうすべ)と呼ぶようになったと『北肥戦誌』(巻之16「渋江家由来の事」[10])には記されている[9]。嘉禎3年(1237年)、島田丸の子孫である武将・橘公業が伊予国(現・愛媛県)から佐賀県武雄市に移り、潮見神社の背後の山頂に潮見城を築いたが、その際に橘氏の眷属であった兵主部(ひょうすべ)も共に潮見川へ移住したといわれる[8]。(引用元;ひょうすべ - Wikipedia)
ところが、このひょうすべには、後に大宰府に左遷させられた菅原道真に助けられたという伝承が九州に残っています。
そのため、ひょうすべは菅原道真とその子孫には害をなさないと言われており、次のような歌が河童よけの呪文として伝わっています。
「ひょうすべよ約束せしを忘るなよ川立おのがあとはすがわら」
(「兵主部たちよ、約束を忘れてはいないな。水泳の上手な男は菅原道真公の子孫であるぞ」)
菅原道真と河童には、このように深いつながりがあるのです。それは道真公が、土師氏=もとまつろわぬ人々の出身であることと、無関係ではないでしょう。
3.醍醐天皇が恐れたもの
冒頭で引用した記事にも書いたように、醍醐天皇の時代には、まだ日本全国に、朝廷に完全に恭順していない勢力が残っていました。
まつろわぬ人々と戦ってきた八幡宮の性格からして、私はそれらの人びとを醍醐天皇が「敵国」と呼んだのではないかと思っていました。
しかし同時に、この「敵国降伏」の御宸筆が下された時、朝廷は道真公の祟りに悩まされていた時期でもありました。
朝廷の人々にとって、もともと朝廷に従わぬ人々の子孫である菅原道真の祟りというのは、単に「道真個人の恨み」以上の意味を持つだったのかもしれません。
ひょっとしたら朝廷は、醍醐天皇は、道真公の背後にいる、「まつろわぬ人々」の反乱を危惧したのかもしれません。
道真公の祟りを皮切りに、全国の「まつろわぬ」人々が、いっせいに朝廷に反旗を翻すのではないかと。
その恐怖が、醍醐天皇に『敵国降伏』の御宸筆の下賜をさせたのではないか。私はそんなふうに思いました。
※3は単なるたまなぎの個人的意見です。
最後までお読み頂き、ありがとうございました!