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前回の記事では、筥崎宮の「敵国降伏」の謎について、たまなぎなりの推論をまとめさせていただきました。
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皆さん今日は、珠下(たまもと)なぎです。 今日も来て下さって、ありがとうございます。 さて、今回は前回の記事を踏まえて、筥崎宮のご神宝である、醍醐天皇の御宸筆・「敵国降伏」の謎に迫ること ...
見どころと謎が満載の筑前国一之宮・筥崎宮④醍醐天皇の時代と「敵国降伏」の謎
この記事でもご紹介したとおり、もともと「敵国降伏」の御宸筆の下賜は、蒙古襲来より250年も前に醍醐天皇によって始まっており、蒙古襲来とは最初は関係ありませんでした。
しかし、今は、「敵国」=「蒙古」を指すという認識が人口に膾炙しております。
今回は蒙古襲来と筥崎宮についてご紹介しましょう。
1.蒙古襲来と筥崎宮
筥崎宮の境内にあるこの石は、蒙古襲来の時の蒙古軍の碇石と伝えられています。県指定文化財です。
案内板には次のように書かれています。
「文永11年(1274年)10月20日、蒙古軍3万は、900隻の艦船に乗って博多に迫り、終日わが軍と激戦を交え、本宮も兵火によって、焼失したのであったが、翌21日朝には、意外にも湾内から姿を消してしまった。世上これは神風によるものだという」
実際神風=台風が蒙古を撃退したかどうかは、現在でも議論が残るようです。
日本軍の抵抗が激しかったため、台風前に蒙古は撤退を決めたという説もありますが、実際にその時期に大きな嵐が起こったことは調査で確認されているようです。
元寇「蒙古は神風吹く前に撤退決めた」驚きの事実 日本の反撃に貢献した対馬、壱岐での前日譚 | リーダーシップ・教養・資格・スキル | 東洋経済オンライン (toyokeizai.net)
元寇の神風、本当に吹いた? | ナショナル ジオグラフィック日本版サイト (nikkeibp.co.jp)
しかし、筥崎宮が元寇の被害を直接受けたことは事実であり、その後長きにわたって、「神の力による風」が日本を救ったのだという認識は、広く日本人の中に共有されることになりました。
ひょっとしたら筥崎宮のそのものも、八幡宮の神威を強調するために、「神風が国を救った」というストーリーを強調するのに一役買っていたのかもしれません。
2.楼門の「敵国降伏」の主・亀山上皇
筥崎宮への「敵国降伏」の御宸筆の下賜は、元寇より250年前の醍醐天皇の時代に始まりましたが、蒙古襲来の時代にも、当時の亀山上皇により「敵国降伏」の御宸筆が下賜されています。
この時の「敵国」は明確に蒙古を指し、しかも現在楼門に掲げられている御宸筆は、この時の亀山上皇の御宸筆を写し取ったものです。
これにより、あたかも「敵国降伏」の御宸筆の下賜が、蒙古襲来をきっかけに始まったかのような印象を与えかねませんが、実際はそうではないことを、もう一度強調しておきます。
亀山上皇は、蒙古襲来を深く憂え、「身を以て国難に代わらん」と全国の社寺に国家の安泰を祈願しました。
現在筥崎宮には、明治時代に納められた亀山上皇の像が安置されています。
3.「神風」伝説が生んだ軍歌
1項でも述べたとおり、「神風が侵略してきた敵国を追い払った」という認識は、以後広く日本人に共有され、「元寇」という軍歌も生まれました。
Wikipediaで歌詞を見ることができますので、興味のある方はぜひご覧下さい。
筥崎宮の境内には、この軍歌の歌碑もあります。
こちらは福岡市東区名島にある、八幡大神=応神天皇の母にあたる神功皇后の伝説になぞらえ、太平洋戦争緒戦の勝利を記念して造られた碑です。
神功皇后・応神天皇母子は、戦いの神として武家の信仰を集めただけでなく、ごく近世まで戦意高揚に利用されました。なんとも複雑な気持ちになりますね。
最後までお読み頂き、ありがとうございました!