皆さん今日は、珠下(たまもと)なぎです。
今日も来て下さって、ありがとうございます!
さて、少し前の話ですが、今年のGWを利用して、基肄城に再挑戦して参りました。
以前訪れた時の記事はこちら↓
皆さん今日は、珠下なぎです。 今日も来て下さって、ありがとうございます! さて先日、基肄城跡へ行って参りました! 基肄城は、大野城や水城などと同様、663年の白村江の戦いで倭国が敗れた後 ...
古代の山城・基肄城跡に行ってきた!
前回は大して下調べもせずに弾丸訪問だったので、山頂付近しか見られなかったのですが、今回はしっかり登山コースを調べ、史跡を主にめぐることにしました。
水やお菓子、同行者も確保(笑)。モデルコースをしっかりとめぐって参りました。
1.スタートは水門・住吉神社
前回は車で山頂付近まで乗り付けてしまいましたが、史跡をめぐるならふもとの水門跡をスタート地点にするのがモデルコースだそうです。
こちらは駐車場もあり、新しくてきれいなトイレと自販機もあります。
分かりやすい地図もあります。今回は史跡めぐりコースに沿って、山頂を目指すことにします。
ただ、調べたところ、目安の所要時間は2時間。往復4時間だとすると、結構ハードな登山です。体力を見ながら、行けるところまで行こう、ということになりました。
ここは、スタート地点であると同時に、史跡の一つ、「水門跡」でもあります。
城内に集まった谷川の水を排水するための排水施設。かなりの勢いで水が流れていました。
水門の横には、住吉神社があり、住吉三神(底筒男神・中筒男神・上筒男神)が祀られています。
創建は不明だそうですが、水にまつわる神様ですので、水門の守護神として勧請されたのかもしれません。
2.最初の史跡、米倉礎石群
さて、いよいよ登山開始です。最初からかなりきつい登りが続きます。体力のないたまなぎは、つい遅れがちに。しばらくは写真を撮る余裕さえありませんでした。
15分くらいで、最初の史跡に行き着きます。これは米倉礎石群。かなり広い範囲に広がっています。
木と比較すると分かると思いますが、かなりの大きさの礎石です。大きな建物だったのでしょうね。
このあたりからは炭化した米が見つかっており、また、大宰府政庁にも「基肄城に米を運んだ」という記録が残っていたため、米倉の跡と分かったそうです。
もし、唐・新羅の連合軍が攻めてきたら、ここに籠城することを想定していたのでしょう。白村江の戦い後は、それほど大陸からの侵攻が差し迫った脅威だった、ということなのでしょうね。
3.鐘撞堂~つつみ跡~土塁跡
しばらく行くと、「鐘撞堂」と書かれた碑が。ここもかなり広い空間になっています。大宰府にも鐘楼がありましたが、大宰府の鐘楼は、漏刻(水時計)に従って時間を知らせるもの。ここには漏刻はなく、大宰府の鐘の音もさすがにここまでは聞こえないでしょうから、ここの鐘は、何らかの合図に使われたと考えるのが妥当ではないでしょうか。「敵襲!」とか「集合!」とか。知ってる方いらしたら教えて下さい。
しばらく行くと、「つつみ」と書かれた案内が。写真右手奥に向かって、緩やかに土地が低くなっています。水をためる、ため池のような役割を果たしていたそうです。
また少し行くと、「土塁跡」の表示。基肄城は、敵の侵入を防ぐため、周囲に土塁(幅6m、高さ3m)を張り巡らしていました。かなり堅牢な山城だったことが分かります。
このあたりで水分を補給したり、持って来たチョコや飴、ラムネを交換してつまんだりしました(小学生の遠足か)。
3.東北門跡
また歩き続けると、「東北門跡」に出ます。
「城の東北部に連なる土塁(幅6m、高さ3m)を幅2.7mほど切り割って作られた門です。門の基礎部分には、左右両端に門礎(門の基礎石)が残っています。近世には水門跡(南門跡)からこの門跡を通過して萩原(筑前領:現在の筑紫野市)へ向かう近道として使われており、「萩原越え」と呼ばれていました。」
なるほど。大宰府からさほど離れていないので忘れそうになりますが、ここは肥前=佐賀県ですからね。右の画面中央に見える、道の両側の石が礎石のようでした。
基山山頂への標識もあります。
ここまでの所要時間は約35分。
地図で確認すると、もう山頂までの道は半分以上クリアしています。所要時間の目安は、どうやら往復の時間だったようです。
「これなら山頂まで行けそう!」と、一行は山頂を目指すことになりました。バテ気味だったたまなぎも、史跡コース全クリの希望に起死回生。
続きはまた次回お届けします!
最後までお読みいただき、ありがとうございました!