はじめに
皆さん今日は、珠下なぎです。今日も来て下さって、ありがとうございます!
今日はちょっといつもと時代が変わります。
たまなぎの勉強メモと推し活のハーフ&ハーフのような記事です。
チェリ家の皆さん、特に実写版のファンの方はご存じと思いますが、『チェリまほ』で黒沢優一さんを演じられた町田啓太さんが、来年の大河『光る君へ』に出演されます。
町田啓太さんが演じられるのは、藤原公任(ふじわらのきんとう)。
平安時代についてはあまり詳しくないたまなぎにとっては、初めて耳にする人物。
しかもこの時代の人びとは、似た名前が多く、混乱します。
そこで図書館で借りてきたのがこれ。杉本苑子『散華~紫式部の生涯』
小説なので大変分かりやすく、頭に入りやすいのです。藤原公任さんのエピソードも、しっかり出てきました。
1.藤原公任という人物
藤原公任は、関白・藤原頼忠(よりただ)の息子。
藤原氏の黄金時代を築いた藤原道長(みちなが)にとっては、同い年のまた従弟にあたります。
実は公任と道長は、父の代から浅からぬ因縁があったのです。
当時の上流貴族階級は、藤原氏ほぼ一色。ライバルのいなくなった藤原氏は、それでも同族内でそれはそれは壮絶な権力争いを繰り広げます。
道長の父の兼家(かねいえ)は、兄・伊尹(これただ)に疎まれ、兄の存命中は閑職に追いやられます。
兄・伊尹は兼家ら弟たちを冷遇する一方、従兄の頼忠を片腕と頼み、自分の命が残り少ないと知ると、この従兄に関白の座を譲ります。
この関白頼忠が公任の父です。
頼忠は温厚で徳のある人物で、関白の座に就くと、閑職に追いやられていた兼家を引き上げ、右大臣の座にまでつけてやります。いい人ですねえ。
けれど野心家の兼家はそれでは満足しません!
息子の道隆(みちたか)・道兼(みちかね)・道長を使い、当時の花山帝を強引に出家・退位させると、娘の詮子(あきこ)が産んだ、わずか7歳の懐仁(かねひと)皇太子を帝位につけて、一条帝とします。兼家は帝の祖父として絶大な権力を手にします。なんてえげつない……
この一条帝の后が、清少納言の主・定子(ていし)と、紫式部の主・彰子(しょうし)だったことは有名ですね。
一方、父・頼忠から兼家に政治の実権が移ってからは、公任はあまりぱっとしない生活を送っています。兼家の長男・道隆の代になっても道隆には反発、一方、同じく道隆に反発していた次男の道兼とは仲が良く、道兼の養女と結婚しています。ですから、公任にとって道長はまた従兄であると同時に義理の叔父にもあたるわけです。
やがて道長は兄たちとの権力争いの末に権力の中枢の座に就きます。長く不遇の時代を送っていた公任はその頃からようやく遅い出世をし、やがて道長に接近し、娘を道長の息子に嫁がせるなど、政治の中枢に近づいていきます。
『光る君へ』では、このあたりのいきさつも描かれるのでしょうか。
2.歌人としての公任
公任は、「大納言公任」の名で、百人一首にも登場します。
「滝の音は 絶えて久しくなりぬれど 名こそ流れて なほ聞こえけれ」
この歌の作者です。
寛弘年間に編纂された勅撰和歌集『拾遺和歌集』には、公任の和歌は現存歌人中最多の15首が採録されました。この和歌集には公任が以前編纂した『拾遺抄』の和歌が全て採録されましたが、『拾遺抄』があまりに有名だったため、『拾遺和歌集』の評判は今一つだったそうです。当時の歌壇において公任が多大な影響を持っていたことが分かりますね。
3.お調子者でおバカな一面も
父頼忠が関白だったころは、公任も調子に乗っていたようで、こんなエピソードがあります。
頼忠の娘の遵子(のぶこ)は円融天皇の皇后となりました。
当時、兼家の娘の詮子(あきこ)は円融帝に嫁いで懐仁親王(のちの一条帝)を生んでいましたが、その頃兼家はまだ位階が低かったので、詮子は女御のままでした。当然身分は皇后に及びません。
遵子が皇后になって初めての参内に従った公任は、藤原兼家の邸宅(東三条殿)の前を通り過ぎる際に、詮子について「このお屋敷の女御は、いつ后になられるのかな(ふっ)」とあてこすったのです。
あーあ、よせばいいのに……。
道長にとって同母の妹である詮子は大変気性が激しい女性でした。
「おのれ公任、いつか見てらっしゃい!」と復讐を誓います。
やがて懐仁親王が一条帝として即位すると、詮子は皇太后の座に就きます。一方、遵子にはとうとう子どもが出来ませんでした。
公任は、道長・詮子の父である兼家から、詮子皇太后宮の次官に任じられます。かつて「自分の姉妹よりも格下」とあざ笑った詮子に仕えよ、ということですから、これは相当嫌味な人事。さらに詮子本人からも、女房を通じて手痛い一言を浴びせられませす。
「お妹御の素腹の皇后さまは、今どちらにお引きこもりですの?(おーほっほほ)」と。こわっ。
子どもを産めなかったことをあざ笑うような詮子の言動も感心しませんが、その前の公任の失言を考えると、これは身から出たさびと言えるかもしれませんね。
また、道長の息子と自分の娘を結婚させた際は、道長に不満を持っていた従兄の実資に、この婚儀のことを延々と自慢して閉口させたというエピソードも残っています。
紫式部とのからみで言えば、『紫式部日記』にこんな話があります。
敦成親王(後一条天皇)の誕生祝いの宴で、酔った公任が紫式部に対して「この辺りに若紫は居られませんか?」と声をかけた、というのです。式部は(光源氏似の人も居ないのに、どうして紫の上が居るものかしら)と思い、その言を聞き流したそうです。
学者の家の出で、やや固いところもあった紫式部からすると、「『源氏物語』読んだくらいで気安く声をかけてくるんじゃないわよ、何なのこのチャラ男は……!」みたいな印象だったのかも。
全体的な印象でいいますと、歌人としては一流だが、お調子者でややおバカ。
それでも骨肉相食む権力闘争の中で、格段の出世はしなくとも身を亡ぼすこともなかったのは、彼がそれほどの野心家でなく、人を陥れてまで出世しようというようなところがなかったからなのか、それとも父・頼忠の人徳なのでしょうか。どこか憎めない、根っからのおぼっちゃまという印象です。
その一方で、権力争いの激しい世の中を、それなりに無難に泳ぎ切った人物といえるかもしれません。
『光る君へ』ではどのように描かれるか楽しみですね。
色白で貴公子然とした町田さんには、平安装束もよくお似合いのことでしょうね。楽しみです。演技達者ですから、少しおバカなところも、お茶目に演じられるのではないでしょうか?
最後までお読みいただき、ありがとうございました!