皆さん今日は、珠下(たまもと)なぎです。
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白村江の戦いで捕虜になり、30年の後にようやく帰国を果たした大伴博麻。しかし彼の日本書紀における記述は短く、その人生にはいくつもの謎が残ります。本日はそれらを検証してみましょう。
前回の記事をお読みでない方は、まずこちらをご覧下さい!
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日本史上初の「愛国者」大伴博麻とは①~ゆかりの地・八女市上陽町を訪ねる
1.当時の外交と博麻たちの行動の謎
前回紹介した戦時中の絵本、『大伴博麻』では、このような物語になっています。
白村江の戦いで捕虜になった大伴博麻は、自らの身を奴隷に売って同胞の帰国を助け、そのおかげで天智天皇は唐の侵攻計画を早めに知ることができ、九州北部に防備を整えた。そのおかげで唐は侵攻計画を諦めた。
現在でも、特にその自己犠牲的愛国精神を称える目的で大伴博麻の生涯について語る時は、このようなストーリーとして語られることが多くあります。
けれど、実際のところはどうでしょう。
『日本書紀』の「持統記」にはこのようにあります。
天智天皇の3年(664年)に及んで、土師連富杼(はじ の むらじ ほど)・氷連老(ひ の むらじ おゆ)・筑紫君薩夜麻・弓削連元寶(ゆげ の むらじ がんほう)の児の4人が、唐人の計画を連絡したいと思ったが、衣食にも困っていて、できないことを憂えた。そこで博麻は、土師富杼等に『私は、貴方と一緒に、日本に帰還したいが、衣食にも困る状態で、一緒に去ることはできない。お願いします、私の身を売って、衣食代に充ててください』と言った。富杼等は、博麻の計画のとおりに日本に帰り着くことができた。
ところが、実際に、筑紫君薩夜麻以外の3人については、いつ帰国したのかという記録はありません。また、彼らが唐人の計画を帝に知らせたという記録もないのです。
天智天皇は664年に烽火の整備・水城の建造など大々的な西海防備を固めますが、これも彼らの報告を受けて慌てて防備を固めたというよりは、勝ち戦に乗じた唐がそのまま日本に攻め込んでくるのを警戒しての行動と考えた方が自然なような気がします。
筑紫君薩夜麻は、671年に帰国しますが、この時は、すでに唐との国交は回復した後でした。
この時、筑紫君薩夜麻は、唐からの使者の先触れとしてやってきていることから、筑紫君薩夜麻は唐からの脱出の途中で再度拘留されたのではないかとみる向きもあるようです。
また、捕虜の身であった博麻が、果たして勝手に自分の身を誰かに売るなどできたのか? という根本的な謎についても、納得のいく答えは見つかっていません。
2.大伴博麻の行動をどう見るか
大伴博麻の行動は、その自己犠牲的精神から、軍国美談として持ち上げられることが多々あります。
もちろん、祖国に急を知らせるということだけのために、自らの30年もの生活を犠牲にするなどということは、とても常人にはできることではありません。
昭和48年に地元・八女上陽町の知識人の方たちがまとめられた冊子『大伴博麻』の中で、ある一つの論文が目を引きました。
多くの方たちが戦後蔓延した個人主義を嘆き、博麻を地元の英雄として称える中、「大伴部博麻ーその犠牲的精神の謎」と題されたこの論文は異色のものでした。
筆者の古賀寿さんは、4人の中で3人が君姓・連姓を持つ地方の有力者であり、博麻一人が軍丁(いくさよぼろ)=一兵卒であったことに注目し、たとえそれが彼の意志であったにせよ、最も立場の弱い彼が犠牲にならざるを得ない構造があった可能性を指摘されています。
彼はその後逃げ出すこともなく、長い奴隷生活に耐えたことからも、彼自身が並々ならぬ愛国心の持ち主であり、彼自身の意志もあってこのような選択をしたのは間違いないでしょう。
けれど、古賀さんの以下のまとめの文が、一番このエピソードの本質を現しているように思いました。
これを要するに、博麻の大いなる犠牲的行為のかげには、「尊朝愛国」の大義もさることながら、グループの中において最も低かった彼の地位や、律儀で勤勉、忠実ではあるが武人ではない彼の性格的なものがあったのであろう。その意味において、彼も弱者の一人、哀れな戦争犠牲者にすぎなかった。こういう解釈を顕彰誌に寄せるということは非常識であり、先人を冒トクするも甚だしいとのお叱りを受けるかもしれないが。こう考えた方がより人間的であり、私たちは素直に、実態としての彼の苦節三十年を評価することができると思うのである。
最後までお読みいただき、ありがとうございました!