皆さん今日は、珠下なぎです。
今日も来て下さって、ありがとうございます。
前々回までの天智帝の神降ろしシリーズ、沢山の反響を頂いてありがとうございます。
このシリーズからは斉明帝・天智帝母子が大変強い絆で結ばれ、共同で筑紫に大和朝廷中心の祭祀体制を整えたことが分かると思います。
また、斉明帝が没した後に、天智帝が母のために行った事業の跡が、大宰府には今でも残っています。
それは、「観世音寺」。
天智帝が母・斉明帝の菩提を弔うために発願したお寺です。
完成までに約80年を要し、大変立派なお寺でした。
現在は当時の建物は残っていませんが、当時は下の絵図のように、かなりの規模を持つお寺だったことが分かっています。
もともと、観世音寺の金堂は南向きではなく、異例の東向きだったそうです。これは、西方浄土におわす阿弥陀如来が斉明天皇に救いの手を差し伸べている形ではないかというお話を仏教史学の権威から聞かれたと、森弘子著『太宰府発見』には書かれています。
天智天皇の母への愛情の深さが感じられるお話ですね。
こちらは南大門の跡。礎石の大きさから、かなりの大きな門だったことが分かりますね。
本堂は近世の建物だそうですが、なかなか立派です。
そして、観世音寺といえば有名なのは、「戊戌年」(698年)の銘がある京都・妙心寺の梵鐘と同一の木型によって鋳造された兄弟鐘とみなされる、梵鐘です。
700年前後からこの地にあり、時を告げていました。
ですが! 現在は九州国立博物館に移動しております(TT)。
囲いがあるとはいえ屋外ですから、国宝の保管場所としては国立博物館の方が良いのでしょうね。観世音寺から国立博物館に保管をゆだねられたそうですから、もうこの場所に戻ってくることはないかと思うと、ちょっと寂しいものがあります。
東側にはきれいなコスモス畑が。
コスモスの向こうには、大野城(四王子山)が見えます。
森の中に見えるのは、宝物殿。残念ながら中の撮影はできませんでしたが、十一面観音像、馬頭観音像、地蔵菩薩像、阿弥陀如来像、不空羂索観音像など、高さ2~5m級の巨大な仏像が安置されています。
さらに、761年には、観世音寺には西の戒壇院が置かれます。
奈良時代、仏教は国家仏教であり、僧尼は戒壇院で受戒しなければ正式の僧尼とは認められませんでした。戒壇院は奈良の東大寺、下野の薬師寺、そして筑紫の観世音寺の3か所しかありませんでした。まさに西日本の仏教の中心地だったと言えるでしょう。中世に入って戒壇院はすたれますが、江戸時代に再建されて禅宗の寺として独立しました。
この日は行楽シーズンのせいか、朝早くから多くの方が参拝に訪れておられました。
最後までお読みいただき、ありがとうございました!