皆さんこんにちは、珠下なぎです。
今日も来て下さって、ありがとうございます!
さてさて今回は前回の続きです。
山から降ろされた第3の神、筑紫神社に祀られた「筑紫の神」について。
この神が何者なのか、また、どういういきさつで山から降ろされたのか、考察させて頂こうと思います。
前回の記事はこちら↓
皆さんこんにちは、珠下なぎです。 今日も来て下さって、ありがとうございます! さてさて、前回までの記事では、天智天皇が、白村江の戦い後に四王寺山から2柱の神を降ろし、春日神社と王城神社に ...
【天智帝の神降ろし】筑紫神社①~山から降ろされた土着の神
1.筑紫神社の縁起について
今までご紹介してきた、四王寺山から降ろされた2柱の神を祀った春日神社・王城神社と違い、筑紫神社にはオリジナルの縁起はありません。
「筑後国風土記」の記述をもとに、縁起が作られています。
「筑後国風土記」の記述を詳しく見て見ましょう。
もともと、筑後の国と筑前の国は一つの国だった。今でいう筑後と筑後の国境の山に険しく狭い山があって、行き来する人は鞍韉(したくら=馬具)をすり尽くしてしまった。そのため、鞍韉尽くしの坂と言われた。また、この国境の上に荒ぶる神がいて、通る人は半分は死んでしまい、それゆえに「命尽くし」の神と言われた。そこで、筑紫の君・肥の君が占って、筑紫の君らが祖神である甕依姫(みかよりひめ)を祝(はふり)として祀らせた。以後この道を行く人が害されることはなくなった。この神を、筑紫の神と言った。また、その坂で死んだ者を葬るために山の木を伐って棺桶を作ると、山の木を伐り尽くしてしまうまでになった。このためにこの国を「筑紫の国」と言った。後に筑後と筑前の国に分かれた。(「筑後国風土記逸文」より筆者訳)
「筑後国風土記」では、茶色の文字の三つの「尽くし」を「筑紫」の国の由来としています。
「筑紫」は本来は「ちくし」と読まれていましたが、この風土記のイメージが広がると、「つくし」と読まれるようになりました。
また、筑紫の神については、赤の文字に注目してみましょう。
筑前・筑後の国境にいた荒ぶる神を、筑紫の君と肥の君が、筑紫の君の祖神である甕依姫を祝(はふり=神に仕える神職)として祀ったところ、神が鎮まった。
筑紫の君は、「磐井の乱」で有名な筑紫の君一族で、現在の八女地方で勢力を誇った豪族です。
肥の君は熊本地方の豪族で、筑紫の君一族と婚姻関係にあったことが分かっています。『筑後国風土記』の記述からも両者の親密さが分かりますね。
そして、「筑紫の神」とは、大和王権が祀っていた神々とは全くルーツの異なる、地元の人々によって祀られていた神であることが分かります。
筑紫神社の案内板によると、この神はもともとは「城山の山頂に祀られていた」ということです。
以前も紹介した伊藤まさ子著『太宰府・宝満山・沖ノ島』によると、著者が筑紫野市の文化財課に電話で確認したところ、「城山」は現在の「基山」のことだという回答が返って来たそうです。
そこから伊藤氏は筑紫の神が降ろされたいきさつについて、一つの推論を導いています。
「筑紫神社の神は、四王寺山から降ろされた神々と同時期、同様の事情で天智帝によって降ろされたのではないか?」
この説について考えてみましょう。
2.筑紫の神は天智帝によって降ろされたのか?
伊藤氏が筑紫の神が天智帝によって降ろされたと考えるのには、根拠があります。
四王寺山は、白村江の戦い後に天智帝が防衛のために朝鮮式山城・大野城を築いた山です。
また、同時期に基山には基肄城が築かれたのです。
四王寺山から神が降ろされたのは、白村江の戦い後。つまり、大野城が築かれた時です。
同時に、基山には基肄城が築かれた。そして、筑紫神社が設けられたのは、『筑後国風土記』の記述からは奈良時代以前であることが分かっています。
ですから、基山に基肄城が築かれた時、筑紫の神も他の2柱の神と同様、天智帝によって山から降ろされたと推論できるのではないか、というのが伊藤氏の考えです。
確かに説得力のある考え方に思えます。
ではなぜ、この時天智帝は「山から神を降ろして祀り直す」というような手間をかけたのでしょうか?
次回の記事で考察したいと思います。
最後までお読みいただき、ありがとうございました!
(参考文献;伊藤まさ子『太宰府・宝満山・沖ノ島』)