皆さん今日は、珠下なぎです。
今日も来て下さって、ありがとうございます!
さて、コロナ禍で外出もままならない日々ですが、たまに近所のショッピングモールや百均に出かけると、どこもかしこもハロウィン一色に染まっています。
このハロウィンというお祭、実は色々昔から気になっていました。
ハロウィンの夜に異界との扉が開くとか、占いをするとよく当たるとかいうちょっと怖いお話や、お化けやモンスターの格好に扮して仮装行列を行う習慣など、神秘と猥雑、恐怖と歓喜、相反する様々な要素が混じりあって、ごちゃごちゃした中にも独特な雰囲気を醸し出しているお祭だからです。
ある時、必要があってこのお祭について調べましたら、ごちゃごちゃ感があるのも納得。
この祭り、実に二千年以上の歴史を持ち、その中でアメーバのように様々な文化の様々な要素を吸収し、変容しながら成長していったお祭なんです!
お馴染みのジャックオランタンや仮装行列、「トリックオアトリート!」でお菓子をもらい歩く習慣なんかも、実は意外なところにルーツがあったりするんです。
今日から数回に分けて、その長く、意外に知られていない歴史についてご紹介させて頂きます。
ハロウィンの元になったのは、紀元前から行われていた、サムハイン祭というケルト人のお祭です。
ケルト人については、世界史を学校で習った方はご存じでしょう。
イナゴならぬミナゴの大群大移動。
375年、ゲルマン民族の大移動が起こる前、イギリスに住んでいた民族です。
このケルト人たちが信じていた宗教は、ドルイド教。
サムハイン祭は、ドルイドの司祭たちが行っていた、一年の終わりと新年の始まりのお祭りだったのです。
サムハイン祭は、夏の終わりと冬の始まりを祝う祭で、収穫祭でもありました。
この日には、一年間の精算として借金の返済や裁判が行われて、「清めの火」の儀式が行なわれました。
いったん全ての炉から火が消され、次の年の新しい火が灯されるのです。
ケルト人は妖精をとても身近に感じていた民族でもありました。
イギリスの有名な劇作家・シェイクスピアの代表作の一つ、『真夏の夜の夢』も、ケルト神話に出てくる妖精がヒントです。
夜の森で、妖精王の夫婦やいたずら妖精のパックが、大騒動を繰り広げる楽しい物語ですね。
紀元前といえば、日本はまだ縄文時代か弥生時代。ヨーロッパではローマ帝国が繁栄を誇っていた。気の遠くなるような昔の話ですね。
この話を知った時、深く茂った枝葉の奥に、妖精たちを隠した黒い森がまぶたの裏に浮かび上がるような気がしました。
森の入り口からいくらも離れないところに、簡素な家々を並べた小さな村がある。太陽が森の向こうに沈むころ、いったん全ての灯りが消され、薄闇の中に家々も森も黒く影絵のように浮かび上がる。そこに、正装した司祭たちの一行が足どりも重々しくあらわれ、火の消えた冷たい炉の中に、一つ一つ火を灯していく。家々から漏れる灯りが闇を温かく照らし、村は新年を祝う歓喜の声に満ちあふれる……。
そんな古い時代の神秘的な風景です。
古代ケルト人は文字を持たなかったため、その記録の多くは外部の人々、特にイギリスに侵攻したローマ人によるもので、分かっていない部分も多くあります。
ドルイド教はローマ人にとっては異教であり、またドルイド教には人身御供を捧げる習慣があったらしいことも分かっています。
外部のローマ人から奇異の目をもって記された記録や、人身御供の習慣などは後に拡大解釈されて大騒動を生むことになります。
はるか時代を下った20世紀、アメリカでハロウィンが大々的に祝われるようになった頃、一部のキリスト教原理主義者から、「ハロウィンは人間を犠牲に捧げる悪魔崇拝の祭だ!禁止すべきだ!」という極端な主張が行われたのですね。
今でも一部では「ハロウィンは悪魔の祭」と主張しているものも散見されます。
けれどこの時代、人身御供は世界的に見ても珍しいことではありませんでした。ギリシア神話にも荒ぶるポセイドンを鎮めるために生贄にされそうになったアンドロメダの話も残っていますし、日本では3世紀の卑弥呼の死に際して多数の奴隷が殉死させられたことも記録に残っています。
日本など、江戸時代あたりまで人柱の習慣がありましたしね。
特にケルト人が野蛮で悪魔を崇拝していた、という主張は極端でしょう。
キリスト教徒からすれば、異教の神は全て悪魔なのかもしれませんが(笑)。
さて、このお祭がどのような歴史をたどり、現代日本の渋谷のどんちゃん騒ぎにまでつながっていったのか。
来週から、順を追ってみていくことにしましょう。
最後まで読んで下さって、ありがとうございました!