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たまなぎブログ by LTA出版事業部

珠下なぎの歴史メモ④博多祇園山笠についてその2

皆さんこんにちは、珠下なぎです。

本日は博多祇園山笠についての続き。

 

このお祭の起源についてお話ししようと思います。

 

博多祇園山笠の公式サイトには、このように書かれています。

 

「博多祇園山笠の起源には諸説がある。櫛田神社の社伝によると、祭神の一つ祇園大神(素盞嗚命)を勧請したのが天慶四(941)年。すでに都(京都)では現在の祇園祭につながる御霊会が行われており、勧請間もなく始まったという説。また、文献的初見である「九州軍記」に基づいて永享四(1432)年起源説もある。

諸説がある中で、博多祇園山笠振興会は一般に広く知られている聖一国師が仁治二(1241)年、疫病除去のため施餓鬼棚に乗って祈祷水(甘露水)をまいたのが始まりという説を取っている。当時は神仏混淆の時代。これが災厄除去の祇園信仰と結びついて山笠神事として発展したというのだ」

 

前半部分は、このブログを長く読んで下さっている方にはすんなりご理解いただけると思います。

古くは古代中国の疫神信仰に始まり、怨霊を鎮めるための祭・御霊会(863年)と合体して疫病退散の祭となった祇園祭。

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もともと疫神信仰は、古代大宰府に先に伝わっていましたが、これが中央で祇園祭として定着し、さらに九州に逆輸入された、という考え方です。

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後半部分はどうでしょう?

 

これは、ずいぶんと時代が後ですね。

それに、「疫病除去のために施餓鬼棚に乗って祈祷水(甘露水)をまいたのが始まり」とさらっと書かれていますが、皆さんはこれ、ピンときましたか?

 

そもそも、「施餓鬼」という仏教の行事自体、あまり知られていないのではないでしょうか?

臨済禅・黄檗禅の公式サイトである「臨黄ネット」には、こう書かれています。

 

「施餓鬼は、焔口餓鬼に「お前はあと三日で死ぬ」と脅された仏弟子阿難が、無数の餓鬼への施食によってその命を長らえたという『焔口陀羅尼経(えんくだらにきょう)』の教えに由来します。現在私たちが知る施餓鬼会の多くは、施餓鬼棚に野菜や乾物を御供えし、洗米や浄水(甘露水)を餓鬼に手向ける功徳によって、各家先祖、有縁無縁の御霊を供養する法要であります」(引用:法話「疫病と施餓鬼」: 臨済・黄檗 禅の公式サイト  臨黄ネット

 

 

そもそも餓鬼とは、生前の行いの報いによって、仏教でいう六道界(天上・人間・修羅・畜生・餓鬼・地獄の六つの世界)のうち、餓鬼道に落ちた人のことです。そこに落ちた人は、口にするものすべてが炎に変わり、また、口が針の穴のように小さくなってしまうために何も食べられず、常に飢えに苦しむのです。その人たちが唯一食事を摂ることができるのが、施餓鬼会とされています。

 

先祖の霊を供養するという性格から、お盆の頃に行われることが多いこの施餓鬼。けれど、一般の方に知られていないのはなぜでしょう?

 

なぜなら、日本に最も多い浄土真宗には、施餓鬼会の習慣がないからです。

浄土真宗では、死者はすぐに阿弥陀仏によって浄土に迎え入れられ、生前の行いによって餓鬼道に落ちるという考え方がないためだそうです。

 

さらに、先に挙げた臨黄ネットには、こうも書かれています。

 

「しかし、弘法大師により日本に伝えられた頃の施餓鬼は、除病延命を祈る密教の修法であったようです。禅門でも施餓鬼による疫病退散の祈願は行なわれていました。京都東福寺を開かれた圓爾(聖一国師)が博多の承天寺に住していた頃、博多では疫病が流行し多くの死者が出ました。そこで、圓爾は弟子に担がせた施餓鬼棚に自らが乗り、甘露水を街中に撒くことによって疫病を鎮め、犠牲になった多くの命を供養されたのです。このことは博多祇園山笠の起こりと言われています」

博多祇園山笠のHPと重なる部分が多いですね。

 

つまり、博多祇園山笠は、古代中国の疫神信仰とは別のルーツ、仏教の施餓鬼会のもつ、疫病退散の性格を受け継いだお祭りだというのです。

 

ただ、博多祇園山笠のHPに書かれたこの一文に注目してみましょう。

 

「当時は神仏混淆の時代。これが災厄除去の祇園信仰と結びついて山笠神事として発展したというのだ」。

 

祇園山笠の元締めである櫛田神社の祭神の一人は、素戔嗚尊。

 

祇園信仰に一番関りの深い神様です。

 

ですから実際のところは、中央から櫛田神社に伝えられた祇園信仰が、東福寺の聖一国師が疫病退散のために行った施餓鬼の行事と結びついて一体となり、博多祇園山笠となって発展していった、ということではないでしょうか?

 

同じ疫病退散という目的を持って、神と仏が結びついたお祭とも言えそうです。

 

最後まで読んで下さって、ありがとうございました!

 

 

 

 

 

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