皆さん今日は、珠下なぎです。
今日は前回の続き、風水都市としての大宰府についてお話ししたいと思います。
前回の記事で、大宰府は四方に四神を備えた、日本最古の風水都市であるとお話ししました。
ところが、これには異論もあるようです。
平安遷都1200年を記念して、平成6年6月にNHKが放送した「よみがえる平安京」の中で、台湾の留学生・黄永融氏がが京都府立大学大学院の修士論文としてまとめた新説が紹介されました。
おおまかにまとめると、「四神に相当するのは、中国の文献の中ではすべて山が当てられている。川や池を青龍や朱雀に当てるのは、「簠簋内伝(ほきないでん)」のみに見られる記述であって、しかもこれは安倍晴明の編集とされているが、実際は鎌倉時代以後の成立の可能性が高い
だから実際に平安京成立の時点では、四神は周囲の山を指していたはずだ」ということです。
1931年に朝鮮総督府が発行した「朝鮮の風水」には、理想的な風水地形が描かれているのですが、これには川や池は見られず、山々の理想的な配置図を描き、理想の土地としています。
この理想的な地形は、都の北に主山(玄武)として高い山を置き、東西に主山からの気を受け流すための丘陵(青龍・白虎)があり、その気を受け止める場所に都がおかれる。さらに都の正面には流れ出す気を受け止めるための朝山(朱雀)が置かれているというものなのですが、これはそのまま大宰府政庁周辺の地形に一致します。
では、まだ陰陽寮もない7世紀に、誰がこのような風水的思想に基づいて大宰府を作ったのでしょうか?
「太宰府散歩」の著者の森弘子氏は、白村江の戦い以後、亡命した百済の高官が、大宰府の都城造営に関わっていたことが関係していたのではと推理されています。
白村江の戦い(663)以降、滅亡した百済から、沢山の人々が日本に逃げてきました。
その中には高い技術や教養を持った人も多く、大宰府の水城や朝鮮式山城は、彼らの指導によって作られたことが日本書紀にも記されています。
風水は百済では官人の教養の一つだったそうです。
ですから、大宰府政庁の場所の選定にも、彼らの風水的視点が生かされた可能性は十分あります。
「遠の朝廷にオニが舞う」でも、白村江の戦いで祖国を亡くした百済僧法蔵が活躍します。
白村江の戦いは、朝鮮半島の人々はもちろん、当時の日本人の運命をも大きく変えました。
では、白村江の戦いとは何だったのか?
次回からはそのお話をしたいと思います。
最後まで読んで下さって、ありがとうございました!